上吉田村(入間郡・入西領)
上吉田村は江戸より十二里(約47.13km)の行程にして、河越城よりの里数は前村に同じ、案に当村昔は隣村片柳に隷せし地なりしにや、今も当村の接地にて、彼村の小名に下吉田と呼処あり、【小田原役帳】に卅八貫九百十八文河越吉田郷太田大膳亮と載しは、この地のことなるに似たれど、高麗郡三芳野郷に同じ名の村ありて、且河越の旧地など伝へたれば、彼役帳に記せる吉田は恐くは当所のことには非るべし、家数三十八、東は則片柳村の地続きにて、南は坂戸村、西は粟生田村、北は高麗川を界として、新ヶ谷村及び越辺川を隔てゝ、比企郡田木村に隣れり、東西十三町(約1.42km)、南北二町(約218.18m)許、水田多く陸田少し、川に添ひたる地なれば屡水損ありと云、用水は高麗川の水を沃げり、村民の余業は、近郷の山より越辺川へ下せる材木をうけつぎて、当村より江戸へ運送せり、村内に八王子より日光への往還係れり、御入国の後本多太左衛門に賜はりしが、其孫太左衛門が次元禄十一年(1698年)上地となり、御料所たりしが其明年(1699年)松平美濃守に賜はれり、宝永二年(1705年)又所替ありて御料所となり、同四年(1707年)雨宮孫六が知行に賜はりしが、安永九年(1780年)上地となり、同(1780年)八月十一日横田筑後守に賜はり、又寛政二年(1790年)御料所となり、明る三年(1791年)大屋遠江守に賜はりしより、今も其子右京知行せり、検地は慶安五年(1652年)時の地頭本多百助糺せり、
高札場
村の西にあり、
小名
とうかの木
いかづち
又六
ねからみ
五郎川
秋山田
清水ざる
前島
越辺川
村の北にあり、新ヶ谷村の方より流来り、嶋田村へ達す、川幅五十間(約90.91m)ばかり、平常の水流は幅十間(約18.18m)許、石川なり、步行渡の川なれど、冬より春に至ては、日光街道へ係る所に板橋を架す、
高麗川
村の北にあり、西方粟生田村より当村へ入、新ヶ谷村の境にて越辺川に合す、砂利川なり、越辺川と同じ、爰も冬春の間には板橋を架す、
諏訪社
天神八幡を相殿とす、村の鎮守なり、村民の持、
末社
水神社
稲荷社
万福寺
瑞珠山と号す、新義真言宗、石井村大智寺の門徒なり、天正十五年(1587年)松本土計宮嶋縫殿介と云者開基せり、開山俊覚寛永元年(1624年)正月廿七日寂す、本尊不動を安、
観音堂
十一面観音坐像にして長八寸(約24.24cm)ばかり、行基菩薩の作なりと云、
地蔵堂
旧家者藤吉
宮嶋氏なり、代々名主を勤む、先祖を縫殿助と称し、信濃国諏訪の一族にて天正年中(1573年〜1592年)当所へ移りしとなり、故に鎮守諏訪明神を村内に勧請すと云、紋は丸の内に梶の葉なり、又松本を氏とせる村民丈助は、諏訪氏の家人なりしなどいへり、按に寺井宿真行寺の開基真行尼は、武田信玄の妹なりしが、勝頼滅亡の後上吉田村に暫く住し、其後彼寺を開きしと云伝ふ、今村内にて真行尼の事を伝へざれど、宮嶋・松本の二人は武田氏に仕へし者なりといへば、尼も便て爰に来りしなるべし、