北浅羽村(入間郡・入西領)
浅羽といへる地名は【和名鈔】入間郡の郷名にも出せし所にして、古き唱なることは論なし、今上下北の三村に分てり、其上下の二村はおしなべて中古は一村にして、南浅羽と呼しと云、是によれば浅羽の地ことに広きことしるべし、その南北を分ちしもよほど古きことと見えて、今市村法恩寺年譜録康永(1342年〜1345年)の証文に、北浅羽の名をのせたり、その文に康永三年(1344年)甲申以建武二年(1335年)二月十三日、券北浅羽松楠寄附三拾貫俸銭田云々とあり、家数三十六軒、村の四境、東は今西村に隣り、南は堀籠・竹之内・長岡の三村にまじはり、西は比企郡赤沼村にて、ここより北の方も同郡石坂村に及べり、この二村は越辺川を堺とせり、東西の径り十五町(約1,636.36m)余、南北十町(約1,090.91m)許、水陸の田等分にして水旱ともに患あり、検地は文禄年中(1592年〜1596年)に糺せしといへど、ふるきことなればその奉行せし人を伝へず、寛永(1624年〜1644年)の頃島田庄五郎に賜はりしが、元禄十五年(1702年)替りて平岡石見守・吉良中務二人が先祖に分ち賜はり、その余は御料所なりしを、宝永元年(1704年)又西尾某に賜はりしより今三給となり、平岡石見守・吉良中務・西尾藤四郎等知行せり、
高札場
一は村の西にあり、一は村の中程、一は村の東にあり、
小名
七段町
あみかき
関口田島
高ざいけ
石田
越辺川
村の西南郡境をながる、長岡村より流れ来り、屈曲して金田村に達す、平常の川幅十間(約18.18m)ほど、冬春の間に板橋を架す、この川に添て水除の堤をきづけり、
八幡社
村の鎮守なり、中央は八幡左右に天照大神・津島天王・鹿島明神・天神の四座を相殿とす、満福寺の持なり、当社の縁起はかの寺の記にのせたり、下に出す、
神楽堂
末社
甲良明神社
若宮八幡社
同寺持、
稲荷社
神明社
以上二社は村民の持、
満福寺
新義真言宗、今市村法恩寺の門徒なり、天徳山地蔵院と号す、相伝ふ当寺は当所の名家浅羽氏の菩提寺なりと、浅羽氏の事は【東鑑】等の書にも見えて、当国七党の内の侍なり、猶上浅羽村の条見合すべし、されば古は当寺も然るべき古刹なりしならん、永禄(1558年〜1570年)の頃戦争の世に、上田周防守松山城を守りて落城の時、敵兵境内へ乱妨して放火せし後、一旦廃絶せしを、後に至りて俊誠と云僧再建せり、故に今此僧を中興開山とせり、寺伝に曰俊誠元和元年(1615年)九月二十三日寂せり、寛文十年(1670年)九月十三日浅羽三右衛門と云者の記せしものに当寺正八幡建立の来由を尋ぬるに、昔内大臣伊周公左遷の時末子一人京都に留められしが、有道氏の養子となりて、関東へ下向す、是を有道貫主遠峯と号す、其子を武蔵守惟行と云延久元年(1069年)七月七日卒す、其庶流浅羽小大夫行成と云もの、右大将頼朝の時功ありて、両浅羽・長岡・小見野・粟生田等の地を賜はる、又頼朝の命によりて、鶴岡正八幡を浅羽庄へ遷せり、是今の八幡社なり、其三男五郎兵衛行長は、頼朝の供奉して奥州へ下り戦功ありしものなり、此人当寺を再建す、当寺昔は真言律宗なり、後改めて真言宗となる、其後建武年中(1334年〜1336年)尊氏田地寄附の状あり、
其文に曰く、
自元弘(1331年〜1334年)到建武(1334年〜1336年)戦死亡卒之幽霊数万也、不弔者不可有因、茲浅羽之庄之中水田十町(約99,173.60㎡)、畠田十町(約99,173.60㎡)、永代寄進之、香花灯明誦経等、聊懈怠不可有者也、
建武三年(1336年)七月十三日
源尊氏
其後永享年中(1429年〜1441年)当所の主、浅羽下野守・同左衛門大夫等鎌倉にて戦死し、其子孫久しく流浪して逵の後、永禄七年(1564年)当所に入来り暫く居住せしかど、又子細ありて出て、上野国佐野庄の内免鳥城に住せり、大旦越を失しにより、当寺も次第に衰へゆきしに、天正十八年(1590年)小田原陣の時、敵の軍兵乱妨して堂宇を破却し空地となし、纔に草庵一字と小社一宇とを残せり、此後北南両浅羽の浅羽が子孫もいよいよ衰へて、氏神菩提寺をも知らざるに至ると云々、されば当時も今は纔法灯を失はざる計なり、本尊地蔵を安ず、
古碑
客殿の傍にあり、いと古質にして時代の物と見ゆ、図右に

此碑近き比まで用水溝の梁に用ひて有しを、見出して爰に移し建りと云、傍に貞治三年(1364年)甲辰七月十七日の断碑あり、
阿弥陀堂
満福寺の持、
旧家者与市
西尾藤四郎が采邑の名主を勤む、高橋氏なり、家系を閲るに宇多源氏佐々木の族、京極左衛門尉高氏が子、左馬助頼方三河国高橋に住して、高橋と号す、此頼方は嘉暦(1326年〜1329年)のころの人にして、鎌倉の武将惟康親王及び久明親王に仕へり、其子兵部少輔定頼又其子将監・基頼二代、山内の上杉管領に随従す、然るに康正二年(1456年)憲忠が騒動の時基頼流涙せり、其子左馬助・将監・頼元長禄年中(1457年〜1460年)より伊勢新九郎長氏に従ひ、これよりその子左近将監綱利、又其子将監氏頼世々小田原北条に仕へて軍功ありしが、天正十八年(1590年)氏政兄弟切腹の時殉死せり、子越前守政信は同時弟政重と共に八王子に籠城して、兄弟同く戦死せり、時に政信が子兵部丞吉次纔に二歳なりしを、其母懐きて当所に遁れ来りて居住せしより、世々当村の民となれり、今の与市は八世の孫なりといへり、