小山村(入間郡・入西領)

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小山村は家数二十軒、東は堀籠村に隣り、南より西へは峯・善能寺の二村に接し、北は竹之内村に界ふ、東西九町(約981.82m)、南北四町(約436.36m)、水田多く陸田少し、村の北沢木村の内に聊の飛地ありて、爰にも農民居住せり、【北条役帳】を閲るに平山長寿が知行十六貫二百二十八文と見ゆ、村民勘次郎が所蔵に、北条氏照が其家人平山伊賀守にあたへし文書あり、思ふに長寿は初名にて、後に伊賀守と名乗しか、もしくは伊賀守の父なりしも知るべからず、又八王子より当村へ出せし文書一通を蔵せり、左にのす、

仁西(マヽ)之郡之内小山之村、夫銭以虎御印判被仰定処、 当村従河越非分申懸、現夫召仕を急度御印判之趣可 被御申立候間、百姓中早々郷中罷帰、当作も可致付
旨被仰出候、仍如件、
卯四月朔日 布施美作守泰之
小山之村百姓中

是等にても旧く入西郡と唱へしを、後領名に改めしことしるべし、御打入の後本郷庄右衛門に賜はりしより、連綿として今子孫丹後守知行せり、宝暦年中(1751年〜1764年)時の地頭本郷某検地せしと伝るのみにて定かならず、

高札場

村の坤(南西)にあり、

小名

花見堂

稲荷森

阿弥陀堂

氷川社

社は二ヶ所建て、上宮・下宮と呼ぶ、村の産神なり、龍光寺持、

龍光寺

新義真言宗、今市村法恩寺の門徒なり、本尊釈迦を安ず、開山の年歴詳ならず、中興開山隆円なり、享保九年(1724年)四月十三日示寂せり、

三福寺

瑠璃光山と号す、浄土宗なり、本尊薬師立像にして長四尺二寸(約1.27m)、春日の作なり、当寺起立の来由を尋ぬるに元薬師堂にて一寺にはあらず、其堂の草創は大同元年(806年)なりと云、天正十八年(1590年)火災のために、此堂烏有となりしに、此薬師不思議に飛出て火を免れけれど、半身は焦れたりと云ふ、今其像をみるに、背面はすべて炭の如く見ゆ、其後元禄年中(1688年〜1704年)一寺となり、川越蓮馨寺の末寺となれり、其中興せし僧を光誉一空と云、

旧家者勘次郎

先祖を平田肥前守と云、此人当国の名家平山伊賀守に仕へしものなり、肥前守が手沢のものなりとても刀一口を蔵す、上げものなれば銘の有無知べからず、長二尺一寸五分(約65.15cm)、直焼なり、其作りは平常のものなり、この余北条陸奥守氏照より平田が冤罪のことにつきて、主人伊賀守へ与へし書状を蔵す、其文に、

一札披見候、然者浜中事、対其方就致緩怠被申付成敗候処、平田無罪之由承候、然間平田七八早々ゆらへ可返付之由申付候、幷取候家財可相返候由手堅申付候、中山大炊助請負候、勘解由左衛門者出陣候処大炊助に申代候、然に浜中儀貴所成就敗候、為如何有様に其刻不承候哉、就其儀二平田をも召摺間敷候、畢竟貴所御手違候、時亦敵地に申寄子細有之、五三日之以逗留打出候、其地昼夜之用心肝要候、本番衆之儀者不及申候、此度之人衆相重候、次明日新六郎同道致候、恐々謹言、
十二月八日 氏照(花押)
平山伊賀守殿

是によれば平田氏の旧くより当所に住せしことしるべし、この余八王子より当村へ出せし文書を伝へたるは、すでに村名の条にいだせり、