黒山村(入間郡・越生領)

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黒山村は河越城の西北六里(約23.56km)にあり、堀江庄に属す、家数八十七、此村は郡の東(西の誤り?)のはてにて、秩父・高麗両郡の峰つづき、山々峙ち谷間はいと狭し、村の四境、東は大満村に隣り、夫より南へかけては阿諏訪村及び高麗郡長沢村に界ふ、西は秩父郡高山村にて、北は龍ヶ谷村なり、東西一里(約3.93km)余、南北一里半(約5.89km)に余れり、元より山村なれば水田少く陸田多けれど、これを山林に比すれば三分の一にも及ぶべからず、用水は村内男瀧・女瀧の瀧壺より溢るる流を引来て漑げども、水旱共に患あり、御入国の後正保(1644年〜1648年)の頃までも久く御料所なりしが、何の頃か島田氏に賜りしより、今も子孫島田藤次郎知行せり、検地は寛文八年(1668年)近郷と同く、成瀬八左衛門糺せり、村内に一条の道あり大満村より入、村の中程にて二条にわかれ、一は高麗郡へ達し、一は秩父郡へ達せり、

高札場

村の中程にあり、

小名

岩平

扇久保

満マこ岩

はら塚

朔日畑

横岩

太平

横山

三ツ叉

おし淵

鎌ノ岩

梅が久保

おかみ山

登り二十町(約2,181.82m)もあるべし、山上に秣場あり、又雑木並び立り、絶頂より望めば郡中の村々は更なり、江戸の方迄も遙に見るべきなり、

かはぶり峠

越生辺より高麗郡長沢村への往来にかかれり、絶頂を郡界とす、村内より江戸へ出るものは、必この峠へかかれり、

男瀧女瀧

黒山瀧図

二瀧共に村西にあり、男瀧は岩石壁立せる山の半腹より飛流す、長さ一丈(約3.03m)許、激勢いと甚し、此瀧壺より、又飛流せる七八尺(約2.12m〜2.42m)の瀑あり、此を女瀧と呼ぶ、男瀧の落口は幅二尺(約60.61cm)許、女瀧は幅三尺(約90.91cm)許、女瀧の瀧壺より流出る水一条の流となり、谷間を屈曲し、村の中央にて河ぶり峠より出る清水に合す、其下を黒山川と呼べり、

黒山川

前にいへる如く、二流合しての後の名なり、下流は大満村に至て、越辺川に落入れり、

熊野社

慶安二年(1649年)社領三石の御朱印を賜ふ、当社は西戸村山本坊の進退する処なり、按に堂山村最勝寺に蔵せる、大般若経の奥書に、応永廿四年(1417年)五月十九日、武州入西郡吾那越生郷、新熊野常住執筆良親と記し、及同年(1417年)六月廿日武蔵国吾那小山一乗坊新熊野など記せしも有、当社は元より山本坊の預る所なれば、自ら別社なるべけれど、又此越生の内に小山と号する所も、今其地なければ彼新熊野と云もの、当社のことなるも知べからず、

神楽堂

本地堂

薬師の像を安ず、春日の作なりと云、

天王社

是も山本坊の内、

金昆羅社

愛宕社

山祇明神社

百姓持、

全東院

曹洞宗、龍ヶ谷村龍穏寺末、岩松山と号す、開山喜州善欣天文五年(1536年)九月二十三日示寂せり、本尊は弥陀を安ず、

長常院

是も龍穏寺の末にて、山号もなし、本尊薬師を安ず、按に上谷村薬師堂縁起に、越生家行三躯の薬師を作り、其一は黒山村に置しと見ゆれば、若くは此薬師ならんか、今よりは考ふべからず、

覚浄院

本山修験にて、山本坊の配下に属す、

徳正院

是も山本坊の配下なり、