成瀬村 附新田(入間郡・越生領)
成瀬村は川越城の西五里(約19.64km)にあり、越生郷堀江庄高麗領に属す、村の四境、東は大谷・和田の二村に続き、西は比企郡古池村に接し、南は越辺川に傍て、対岸は当郡黒岩・津久根の両村なり、北は鹿下村に限れり、東西の径十四町(約1,527.27m)、南北七町(約763.64m)、民家は四十五、水田多く陸田少し、当村古は成瀬氏の領せし地にや、当国七党系図を閲るに、児玉党越生有行の三男四郎有平の子、鳴瀬右近太郎有年と云もの見ゆ、彼系図には年代を記さゞれど法恩寺年譜録に載たる承元二年(1208年)有平の兄、有弘が左馬允有高に地頭職を譲りよしし有にても、大抵其頃の人なりしこと知らる、御打入の後は御料の地となり、寛永(1624年〜1645年)の頃は高室喜三郎・同四郎兵衛等支配し、寛文八年(1668年)成瀬八左衛門が支配せし頃検地すと云、其後元禄十二年(1699年)黒田豊前守に賜はり、同十六年(1703年)再び御料の地に復し、正徳二年(1712年)森与五左衛門が家に賜はりしより今も替らず、当村の北につづき近き頃開けし新田あり、天明六年(1786年)飯塚常之丞検地せり、民家なく本村持添の地なり、
高札場
村の東にあり、
小名
梅沢
檜木田
かちや
熊ノ谷
薬師堂
昔ここに薬師堂ありしと云、
鳥井戸
昔村内高房山の浅間社の鳥井ありし地なれば、かくとなへりといふ、
高房
北の方なり、此小名のこと前村に弁ず、
高房山

小名高房の内にある山なれば、直ちに名とせり、高さ五丁(約545.45m)余にて、四辺は松杉生ひ繁りて中腹に妙見寺あり夫より頂までは殊に険岨の山なり、頂には浅間の小祠を建し祠辺よりの眺望最打開けたり、先東の方は筑波の山を始として、比企・足立・江戸を打越て、遠く房総の山々を見渡し、南は八王子の辺までのあたりに見え、西は秩父刀嶽及比企郡笠山・乳首山など連り、北は三国峠より信州・越州の高山見えたり、
越辺川
村の南境を流る、比企郡古池村より来り、当郡和田村に達す、川幅十間(約18.18m)、其間橋を架す、当村より黒岩村への往来なり、
諏訪社
慶安二年(1649年)社領五石の御朱印を賜ふ、神体は長一尺(約30.30cm)許の丸き石なり、村の鎮守とせり、
別当 見正寺
新義真言宗、上野村医王寺の末なり、龍満山と号す、本尊正観音を安置せり、
虚空蔵堂
虚空蔵は坐像にて長二尺(約60.61cm)、仏師春日の作、
熊野社
村持、
神明社
神体は鼠色にて、石剱の如きものなり、長一尺(約30.30cm)許、見正寺持、
妙見寺
新義真言宗、上野村医王寺末、高房山と号す、小杉村天神社応永十二年(1405年)の棟札の銘に、当社別当高房山禅海開闢以来威光増益云々と見えたり、高房山は当寺のことならんには、旧き寺にて其頃は天神の別当なりしことしらる、本尊地蔵を安ず、客殿の傍に鐘楼あり、明和元年(1764年)鋳造の鐘をかけおけり、
観音堂
如意輪観音の坐像長二尺(約60.61cm)なるを安ず、弘法大師の彫刻なりと云、
常正寺
新義真言宗、堂山村最勝寺末、普門山と号せり、本尊は観音を安ず、
高岸寺
曹洞宗にて越生龍穏寺末、本尊十一面観音を安ず、
阿弥陀堂
五輪塔一基
村の中程なる丘の半腹にあり、高さ二尺五寸(約75.76cm)許、附石に禅栄大師応永廿年(1413年)巳七月廿八日と刻す、何人の墓なるにや、