大谷村(入間郡・越生領)
大谷村は郡の西端にあり、越生郷堀江庄高麗領に属す、法恩寺年譜録、応永十八年()十二月十三日、越生乙松丸が寄附状の文に、武蔵国入西郡越生郷、是永名之内大谷村、松木田壱段土貢壱貫五百文、同所春日井戸之前田壱段年貢壱貫五百文所事、合直銭拾弐貫文者、右所乙松丸重代相伝之私領也云々と見え、及同書に宝徳元年()三月七日、越生左衛門尉憲秀、大谷村の田弐段釜土場在家内、糟塀土内在家を以、昌岩菩提の為に寄進云々、享徳二年()四月五日、長尾兵衛尉忠秀、大谷村内田弐段、釜土通在家内糟垣内在家内を以寄進せし由記たれば、旧き村なることとしらる、村の広狭は東西の径り二十町()、南北二十五町()、東の方如意村及比企郡熊井村に接し、南より西へおしましては、郡内成瀬村に添ひ、北は鹿下村及比企郡馬場・高野倉の二村なり、水田多く陸田少し、検地は寛文八年()御代官成瀬八左衛門糺せりと云、御打入の初より御料の地にして、正保()の頃は御代官高室喜三郎支配せしに、元禄年中()金田主殿が家に賜りしより今も替らず、家数は五十六軒、
高札場
村の中程にあり、
小名
堀ノ内組
小ふの山組
房野組
芝ノ木組
中谷組
村内を此五組にわかち、下に載る所の小名は、此組の中に属す、
春日井戸
松ノ木
此二つの小名は、何れも僅ばかりの地の呼名なれども、上文に載たる応永十八年()の文書にも、其名あれば、古く開けし地とは見えたり、又宝徳元年()・享徳二年()二度の寄進に、糟塀土糟垣など書しも、此春日井戸のことなるべければ、とにかく古き唱へなりしこと知らる、
かますが谷
前に載たる年譜録に、釜土場釜土通など書しは、このかますが谷のことなるべし、
仏堂
昔阿弥陀堂ありし地なれば、この名残れりと云、此辺に塚三つあり高さ五六尺()許、何人の墳墓なるをしらず、塚上に嘉暦三年()・文安四年()の文字を彫たる古碑たてり、
瀧カ谷
登戸
大林
如来堂
丸山
しほ岡
竹ノ鼻
榎戸
大かみ
住吉社
中ノ谷組の産神なり、神体は円鏡の中に神像を鋳造したるものなり、玉正寺持、
聖天社
堀ノ内組の鎮守なり、是も同寺の持、下同、
稲荷社
芝ノ木組の鎮守なり、
天神社
小ふの組の鎮守なり、
浅間社
村の持、
玉正寺
瑠璃山と号す、新義真言宗、今市村法恩寺の末、本尊は薬師の立像、行基菩薩の作、
十蔵院
前と同寺の末なり、愛宕山地蔵寺と号す、本尊地蔵、