高麗郡総説

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高麗郡は国の中央にあり、江戸より西北十余(約39.27km)里なり、【和名鈔】に高麗を訓にて古末と註せり、 郡名の起りは【続日本紀】日、元正天皇霊亀二年(716年)五月辛卯、駿河・甲斐・相模・上総・下総・常陸・下野七国の高麗人千七百九十九人を以て武蔵国に遷し、高麗郡を置とあれば、是其初め高麗人の遷されたる者、今の高麗本郷或は新堀村・青木村のあたりに住て、夫より漸々草創せしことと見ゆ、青木村に住せる青木内蔵助が家譜に云、其先武石麻呂霊亀二年(716年)二月詔を濛り、高麗人九百九十人を具して、丹波国より本郡に至り居住せし、その地を即ち青木村と名くとあり、按に武石麻呂の事蹟は【続紀】等には更に沙汰なき人なり、又云その時禁裏より賜はりしものとて、青木一名は鹿子木あり、今老幹となりて存せり、然すれば此青木と云るものも、霊亀(715年〜717年)の頃禁裏より賜ひしものといへば、千年の余を経たる木なり、かかる古代の物今も存せりと云は、尤うけがたきことなり、殊に蚊子木と云るもの他国にもままありて、其形状も似たり、多く蚊の生ずる木なれば斯く云りと、是等の木なるも知べからず、かたかた信じがたしといへど、土人の伝ふるままを姑く茲にのす、 又新堀村聖天院の境内に、高麗王の館跡及び墓碑等あり、その余大宮明神社伝等に委しければ推て知るべし、郡中の村里多くは白髭明神、又は大宮明神を祭り鎮守とするは、高麗王のことなる由、即ちこの新堀村より起りて郡中所々にあり、これぞ其始を欽慕するゆへなるべし、 又古くより世に武蔵鐙と称するものあり、此処に遷されたる高麗人の造るところと云【盛衰記】に、畠山重忠小坪合戦の時、武蔵鐙を用ゆと云、今の世に五六鐙と称するものは、其遺製なるべし、 扨さて本郡は往古多磨郡より通じて入間郡及び高麗郡に聯繇として茫々たる原野なりしに、是をすべて武蔵野と称せしなり、すでに元弘年中(1331年〜1334年)新田左中将武蔵野の合戦ありしなどいふは、即ちこの郡に亘りてのことと見ゆ、今の篠井村のあたり塁壁の遺蹤あるもその頃構へしものと見ゆ、又柏原村と広瀬村界の東辺入間川を八町の渡しと云伝ふ、是ぞ堤などもて流をさゝへし広濶なる所と思はるるなり、又そのあたりを霞ケ関とて当国に名たる名所は此所なりと云、後世分れて入間野となり、或は入間の里と云しならん、 又高麗原と云るは今の新堀村辺なり、南北十三四町(約1,418.18m〜1,527.27m)、東は的場村まで二里半(約9.82km)許、渺々たる平原なりしと云、尊氏将軍の文書に、観応三年(1352年)閏二月廿八日高麗原に戦ふと見えたり、按ずるに霊亀(715年〜717年)の前此郡を置ざる時は草昧茫々たる間地なるか、 恐くは本郡もと入間郡の分郡と思はるるには【元明紀】に云和銅六年(713年)五月甲子に、畿内七道諸国郡郷名、著好字、其郡内所生銀銅彩色草木禽獣魚虫等物、具録色目、及土地沃瘠、山川原野名号所由、又古老相伝旧聞異事、載于史籍言上すと、これ諸国風土記を奉ぜられし初めなるべし、さればいかなる迂僻の閒地といへど、孰れの郡郷にか属せざることはあるまじ、 【和名鈔】に広瀬を訓して比呂世とし、入間郡の部にのす、【文徳実録】に嘉祥三年(850年)広瀬神社を官社に列すと、その時広瀬村はなを入間郡に属す、上は霊亀(715年〜717年)の分置より下も嘉祥(848年〜851年)に至るまで、百三十余年に及べども入間郡と書せり、【和名鈔】には広瀬を入間郡の部にのせ【伊勢物語】には三芳野を入間の里と記せり、的場村に三芳野塚あり、上八戸村に三芳野道場あり、いづれも入間郡にして今本郡に属す、されば近き世に及びても入間郡としるせしものあり、天正十九年(1591年)の御朱印、篠井村観音堂、仏子村高正寺鐘の銘などにも入間郡とあり、上八戸村日吉山王棟札には、寛延年中(1748年〜1751年)すら猶入間郡と書せり、【小田原北条家人所領役帳】に新田又七郎が領せし頃、河越三十郷の内上八戸村とのす、按に入間川を挟て東西にある村々をさすがなるべけれど、今いづれの村と云こをしらず、 平戸村・虎秀村・上下井上村・長沢村はもと一村にして、入間郡我野村と唱へしが、今は本郡に属して五ヶ村となり、下我野郷の唱へをおへり、上我野郷は秩父郡に属せり、又駒寺野新田・勘六新田・森戸新田は入間郡に属して本郡の中に駁雑す、これ全く入間郡より分ちしものと思はる、その名唱書記混同せるものは旧染の遺俗往々誤りを伝ふるものなるべし、 既に前に弁ずるごとく武蔵野と云、入間野と云、高麗原と云、これすべて一円の武蔵野にして、杳渺たる曠野西に亘り、秩父郡の辺に至まで、後世分れて漸々新墾し、或は田畠となり、或は村落となり、人家も従って出て来り、古とは異なること推て知るべし、 【回国雑記】に載す上八戸村を謂て川越と書するをもて考れば、往古川越の地は川を挟で称すること明らけし、日吉山王鐘の銘に、文応元年(1260年)に河肥庄と書するものあり、左すれば川越の唱もとよりありしこといよいよ明らけし、河を川とし、肥を越と書するものは、後世改むるものなるべし、されば川越城の塁跡は日吉山王社地なるか、或は常楽寺のあたりなるべし、みな城跡塁跡とは云伝れど、聢しかとせし証左なし、 郡の地域はその形ち東西に長く南北は狭し、中にも郡の中央と覚しき所は、括れたる如く狭し、さて其くゝれたる所より東は原野田畠多く、村落その間に点綴せり、 西は地形大率崎嶇多くは嵯峨に拠りて畠をひらき、卑隰に就て田を作り、村落もまた高処迂僻、或は沢間渓流に添て民戸各処に散在す、然るゆへに山畑のあるあたりは柴もしくは雑木もて藩籬をなす、謂ゆる鹿柴などと云べき者か、又陥穽をうがちて猪鹿をば防ぐ所もあり、 西端に至りては秩父郡の山々犬牙接続して経界をなせり、 偖さて郡中を流るる川二流あり、北辺の村落を流るるは高麗川なり、南辺の村落を流るるは入間川なり、中間の括れたる所に至りては、両川相せばまりて其間僅に一里(約3.93km)許なり、 この郡西は秩父郡に接し、西南間は多磨郡に続き、南より東北へ環りて入間郡なり、その界は東より南へ入間川を界とし、仏子村・阿須村の辺は山を界とし、上下畑村は成木川を界とす、それより西北へめぐりては、地形犬牙して山の頂を界へり、艮の方は原野田畠或は径路をもて界とせり、以上の経界は後世大に変革せしことと思はるるなり、 東西の長さ七里(約27.49km)ばかり、南北の広さ三里(約11.78km)には近し、中間の狭き所は一里半(約5.89km)許、中央は中居村・中山村の辺なり、 土性は大抵野土多く真土少し、西の方山村は石交りの真土なり、 水田は陸田に比すれば三分の一なり、其水田は多くは中間より東にあり、西の方には僅に谷ツ田のみありて、多くは山畑なり、 郡中に二条の往還あり、其一は秩父郡名栗村辺よりの通路にて、赤沢村より青木村・中居村辺まで三里(約11.78km)許を経て両岐し、南北に分る、南は一里(約3.93km)許を経て根岸村に達す、北も一里(約3.93km)余を経て入間郡岩口村に達す、又一条は秩父郡我野郷より三里(約11.78km)余を経て、是も又岩口村に達す、 此余二条の往来あり、其一は川越城下より上広谷村へかかり、戸宮村を経て一里半(約5.89km)ばかりにして入間郡石井村に達す、是は秩父より江戸への街道なり、其一は入間郡黒須村より根岸村を北して、高萩村より臑折村にかかり、入間郡坂戸村に達す、是は八王子より日光への往来なり、 扨人物風俗等に至りては、させる殊異なしといへども、西の方山による村落は、なをさら年穀大抵一歳を終るにたらず、其民は総て山沢の利によりて生理をなす、材木もしくは炭薪を以て粟米に換ふ、このゆへに丁壮は杣取炭焼を業とし、処女婦嫗に至るまで是を負担し傭銭をとる、又は石灰やく村は老弱みな是がために奔走して、各其資を得るといふ、 最も鄙野の風俗にして、質朴とはいへども寛富の民、或は里老輩に至りては頗る都下の風を学ぶものあり、