中古所唱郷庄
高麗郷
合村十四、説上に弁ず、
加治郷
合村九、説上に弁ず、
勝呂郷
合村六、説入間郡に弁ず、
中山郷
合村二、今中山村あり、これより起りし名なるべし、
三芳野郷
合村十、説上に出、
霞郷
合村六、今柏原村の内霞ケ関の名跡あり、これより起りし名なるべし、
広谷郷
合村三、今広谷村あり、これより起りし名なるべし、
日影郷
村五、説末にのす、
下我野郷
合村五、入間郡今市村法恩寺年譜録、越生左馬允有道寄附状に、承元二年(1208年)三月武蔵国吾那上下云々とあり、土人の説に我野は高麗国の地名にしてあかなと云べきを、いつしか我野と改しと云、今本郡に下我野ありて、秩父郡に上我野あり、
加治庄
合村七、
浅羽庄
合村四、説入間郡に出、下同じ、
山田庄
村一、
高麗領
合村二十、説上に出、
加治領
合村四十七、郡内中山村の弓手妻手にありて属する村数四十二と伝ふれど、正保(1644年〜1648年)改定より今に至るまで分村又は合村せしものありて、今現在する所すべて四十七村に及べり、 七党系図を按に、丹之党の内加治氏は其先高麗五郎経家より出て、加治太郎実家と号す、これらは皆所在の地名を始て氏に称せしなるべし、 実家が第二郎家季、元文二年(元久二年の誤記・1205年)武州二俣川の戦に、畠山重忠がために討死すと見ゆ、其頃より鎌倉将軍家に属し、氏族等連繇としてこの地を領せしことと見へて、郡中所々に加治氏の古墳及余裔あり、領名の旧きこと知らる、
川越領
合村十、説入間郡に出、
松山領
村一、比企郡に松山町あり、是等より起れる名なるべし、
未勘
合村十二、
武蔵野新田
合村十五、内八ヶ村は本村に隷して、持添新田と称するものなり、
闔郡合村一百十三 内宿駅二
右件の村今現在の数なり、此内正保(1644年〜1648年)より元禄(1688年〜1704年)の間、原野を開きて村落となし、村長ありて一村となる、新田の分合て六ヶ村、又元禄(1688年〜1704年)以後開墾せし新田の分本村に隷して、多くは民戸なくして持添新田と称するもの四十八村、内八ヶ村は武蔵野新田の内なり、
正保(1644年〜1648年)年間改定の時合村八十三、元禄(1688年〜1704年)に至て再訂の時合村一百五、前に比すれば増加すること二十五村、名を滅するもの二、今現在の合村を、元禄(1688年〜1704年)の頃に比すれば、又増加すること十、減ずる者二なり、