大塚新田(入間郡・河越領)

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大塚新田は河越より坤(西南)の方一里(約3.9km)を隔て、江戸よりに十里(約40km)の行程なり、山田庄に属し、三芳野里と云へり、案に当村名主久兵衛が所持の記録に、慶長年中(1596年~1615年)大塚村開発の頃、足立郡桶川宿辺にすみし新兵衛・次郎右衛門など云る民、一両輩来て其事を佐けしに、同十八年(1613年)かれ等又武蔵野の芝地を開きしと云は此所なり、されば慶安の頃までは、大塚村次郎右衛門新田と唱へしに、延宝(1673年~1681年)の頃始て大塚新田とのみ唱へし由を記せり、今の里正久兵衛は次郎右衛門の子孫なり、村の広さ東西九町(約980m)余、南北十町(約1km)余、東は脇田村新宿に境ひ、南は今福村に隣り、西は大袋新田及び大塚・大袋の三村に交り、北は豊田村に依れり、民家三十余は村内を貫けり、高麗郡飯能より扇河岸へ通せる住来の片側に屋を並べて連住せり、村内陸田のみを開きたれど水損あり、検地は慶安(1648年~1652年)・延宝(1673年~1681年)の二度に松平伊豆守糺せしが、寛文中(1661年~1673年)武蔵野新開の所を検せしことあり、古くより河越付の村となり、今は松平大和守の領分なり、

高札場

村の西にあり、

小名

中村台

年とらす川

東南にあり、本村より入り、村内をわずかに流れ、新宿へ沃げり、川幅二間(3.64m)、

観音堂

村民の持、