大仙波村(入間郡・河越領)

公開日:
目次

大仙波村は河越の巽(東南)五町(約550m)余にあり、山田庄三芳野里に属す、江戸への行程十里(約39km)余、土人語り伝に、当所は往古入海なりしを、仙芳仙人と云もの来りて陸地となしたれば、仙波の名は起りしと云へり、いと覚束なき説なり、【保元物語】に仙波七郎高家と云人見ゆ、仙波系図には仙波七郎家信とのす、又【東鑑】に仙波平太・仙波太郎・同次郎・同弥三郎・同左衛門尉など云人出たり、是その在名をもて氏とせしなるべし、大仙波の唱へは尤後世のことゝ見えし、【北条役帳】に関弥次郎仙波の内沼野五貫文、中松幸松仙波内平七郎新三郎拾貫文とあり、当村も河越城に附し村なれば、地頭は城主の遷替にひとしくして、今は松平大和守が領知なり、其余仙波御宮料百六十石余あり、検地は慶安元年(1644年)の改にて租米の数を定めらる、其後明暦二年(1656年)・延宝三年(1675年)・元禄七年(1694年)等新開の地検地ありと云、村の大さ東西の径り十二三町(約1.3km~1.4km)、南北七八町(約760m~870m)に過ぎす、東は大中居村に続き、南は田島村扇河岸及び岸村に隣り、西は新宿・脇田の二村に接し、北は小仙波村なり、江戸より河越への往還村の西にあり、南の方岸村より入て仙波新田に達せり、村内陸田少くして水田多し、家数は六十七軒あり、

高札場

小名

城ノ内

寺畑

堀籠

いはらいと

秋柄谷

しゝみ塚

弾正屋舗

この処は昔筑後弾正と云し人の、住居の跡なりといへと、其年代及びいかなる人と云ことを伝へず、恐らくは難波田弾正など居しあとなるべしとおもへり、

宿屋舗

今の街道の東裏を云、この処昔山田の町と呼びて、宿駅のありし地なりと云伝ふ、今も礎石瓦などまゝ掘出すことあり、又古井の跡も残れり、按に【和名抄】郷名の条に入間郡に山田とありて、此辺山田庄を唱ふる時は、かの昔山田の町といひし所と云は、その名の由て起る処の本なるにやあらん、

小屋ノ後

上ノ町

内袋

会下ノ下

瀧ノ上

雀川

塚田

今町

なかま屋敷

うとう

坂上

塚三

六角堂塚・猫山塚・甲山塚寺の名あり、

愛宕社

円径五十間(約90m)、四方の塚上に立、この社頭よりの眺望東南の方打開けて、最も勝景の地なり、又爰より坤の方二三町(約220m~330m)を隔て浅間の社立る塚あり、土人いかなる故にや其塚を母塚と呼び、当所のを父塚とわかちいへり、又当所の塚は仙波七郎高家を葬し所なりと云へど、更に正しき拠とすべきことなし、

富士浅間社

此社地も一丈(約3m)余の塚にて、則前にしるせる母塚と云ものなり、仙波中院の持なり、

下宮

氷川社

弁天社

共に長徳寺の持、

稲荷社

当山派の修験、万人坊の持、

長徳寺

天台宗、仙波喜多院末、冷水山清浄土院と号す、開山は慈覚大師なりと云へり、当寺に伝ふる古き過古帳の序に、永正甲戌仏涅槃天台沙門実海と記したれば、是人もし中興開山の僧などにや、本尊は弥陀を安ず、

観音堂

観音は白衣の坐像にて長二尺、毘首羯摩が作と云、

天然寺

是も喜多院の末寺なり、自然山大日院と号す、慈覚大師の草創の地と云、今按に【所領役帳】に勝瀬孫六十九貫文は仙波内天念寺分なる由を載す、この天念寺と云は恐らくは当寺のことなるべし、本尊弥陀を安置なせり、

大日堂

此大日は慈覚が作なりと云、

弁天社