野田村(入間郡・河越領)
野田村は河越城より坤(西南)に当れり、郷庄の唱は伝へず、江戸より行程十二里(約47km)、村の広さは東西も南北も大抵三町(327m)許にて、東の方松郷に接し、西は今成村に及び南は脇田村、北は小久保・寺井等入会の地に限れり、陸田多して水田は少し、民戸三十六、当村の開けしは古きことにはあらざるにや、村民田島氏を称する久左衛門が家に蔵する、慶長二十年(1615年)洒井備後守忠利より出せし文書に、野田新田と書たり、其文に、
野田新田下畑之処、屋敷に成候分は、以来共上畑之年貢相定指上之上者、諸役令免許者也、
慶長二十卯九月吉日洒備後(花押)
野田新田
田島隼人
この備後守は河越の城主なれば、この頃より河越城に属せし地なること知らる、検地は慶安元年(1648年)七月松平伊豆守信綱が改を始として、其後明暦二年(1656年)・延宝三年(1675年)・元禄七年(1694年)等あまたヾひの検地あり、されど後年の改は皆新開の処を正せしのみにて、一村を挙ての検地せしにはあらず、今松平大和守領分なり、
高札場
村の中ほどにあり、
小名
五反屋敷
今大和守が家人等の住居の地なり、
堺町
松郷との接地なれば、其名起りしといへり、昔はこの辺に御鷹部屋ありて、御鳥見田中助作預り奉り、餌差十人を抱へをきし故、餌差町とも唱へたりしとなり、
稲荷社
小高き塚の上にあり、土人是を小手差稲荷と呼べり、其故は昔小手指原合戦の時、陣取となりし跡に立たる 社なれば、其名をおびしなりと、されど別に証となすべきものなければ、附会の説なるも知べからず。塚あるをもてみれば、むかし討死などしたるものゝ墳ならんか、当社は仙波院の塔中にて、光善坊の持なりと云、
天王社
山王社
同辺なる小高き塚上にあり、よりて山王塚と呼ぶ、光善坊持、
妙昌寺
法真山と号す、法華宗、荏原郡池上本門寺末なり、当寺は昔多賀町にありしを、天和元年(1682年)こゝに移されしとなり、中興開山を日意と云、寂年は詳にせず、三宝を本尊とす、
弁天社
当社は古よりの鎮座なれば、地主の神と称せり、
三十番神堂
十念寺
時宗にて、相模国藤沢清浄光寺の末なり、清谷山と号す、開山泰禅天文元年(1532年)十月十八日寂せり、三尊の弥陀を安ず、当寺も初は代官町にありしを、元和元年(1615年)今の所へうつされしといへり、
熊野権現社
瘡守稲荷社
この稲荷はいかなる故にや、秋元但馬守が家人長井川徳右衛門なるもの、甲斐国より持来りて、始は己が住宅の内にをきたりしを、明和年中(1764年~1772年)爰へ移せしとなり、