野田新田(入間郡・河越領)

公開日:
目次

野田新田は其開けし年代を伝へず、正保(1644年~1648年)の頃のものには野田村を載せて此新田を載せず、元禄(1688年~1704年)の頃は野田村及び野田新田も見えたれば、正保の後に開けしたるべし、其地は河越城より十七町(1.85km)を距て山田庄の内なりと云、江戸よりの行程も前村に同じ、村の広さ東西四町(436m)余、南北二町(218m)に余れり、東は野田村に続き、南は新宿村に隣り、坤(西南)は豊田新田にて、西は豊田本村に境ひ、北は今成村に接せり、民戸九軒、陸田のみを開けり、検地は慶安元年(1648年)松平伊豆守信綱糺せり、然りしより後世々河越領にて、今も松平大和守の領分なり、

高札場

村の北にあり、

小名

上野田

鎬新田

八幡社

御荼湯塚と云る塚上に建つ、神体は馬上にて甲胄を帯せる木像なり、河越養寿院の持、御茶湯塚と呼ベるゆへんは、神祖此辺御遊覧の時、この塚上に御休息ましませしをりから、塚下の宝林庵より御荼を奉るゆへに、かく号すと云、

稲荷社

宝林庵

禅宗、河越養寿院の持、本尊正観音を安ぜり、本堂の位牌に開山大光英参明和五年(1768年)九月七日寂とあり、又中興開山了覚は享保十七年(1732年)三月十二日寂すと伝へり、されど享保明和を上ること廿年にすぎたれば、開山の明和に寂せしと云は疑ふベし、境内に開基卷光院雲誉隠西居士、享保三年(1718年)三月廿三日卒すと云碑あり、こは俗名新藤平四郎吉安河越志義町に住せし由、又中興開基高節斉省日孝居士、寛延三年(1750年)七月八日、俗名高山甚五兵衛宜繁とあり、これは秋元但馬守藩なりと云、これらの墳墓をもて合せ考ふれば、了覚と卷光院は中興の開山開基なるべけれど、神祖この辺を御遊覧のとき、当庵主御草を奉りし事前に見えたり、これらたしかなることならば、英参を開山とするは信ずべからず、