小久保村(入間郡・河越領)

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小久保村は河越城より西北の方赤間川に添し村なり、江戸より行程十里(約39.27km)、山田庄に属せり、村の広さ東西二町(約218.18m)、南北一町(約109.09m)に過す、昔は村高六百石余の地なりしに、元禄元年(1688年)其内を割て城下町へ入、町郷分とす、又今の向小久保など云所も此村より分郷せし故、今の如く小村となれり、四境東南の二方は城下町に隣りて、東の方は赤間川を界ひとす、西の方は町郷分及び今成・上寺山・中寺山・下寺山の数村に続き、北の方は宿粒・向小久保・寺井・東明寺の四村に交れり、村の中間に一条の往来あり、是秩父街道にて民家百余此辺に連住し、旅客の宿をなせり、田畑等分にて田間の用水は赤間川を引用ゆ、此村旧きことは伝へざれど、【北条役帳】に五十貫文河越卅三郷小窪卯検地辻幼庵殿とあり、正保年中(1644年~1648年)の郷帳にも小窪と記したり、其後延宝(1673年~1618年)・元禄(1688年~1704年)の頃はなべて小久保と見えたれば、此頃より今の文字と書替しなるべし、土人寺井伊佐沼・寺井宿・寺井松郷の三村を通じて、寺井三ケ村と唱へ、又此三村に東明寺及び当村を合せて五ケ村と唱ふ、元禄二年(1689年)にかきし当所の僧養屋禅師の伝にも、五ケ村と云ふ事見へたれば、土俗の唱ながらいと近年に起りしことにもあるべからず、検地は慶安元年(1648年)松平伊豆守信綱、延宝(1673年~1681年)・元禄(1688年~1704年)の二ケ年野開き、若くは武蔵野開の処を検地せり、これも河越城附の村なり、

高札場

村の南高沢橋の傍にあり、

小名

雀宮

占雀の宮とて社たてり、故にこの名あり、何の頃か向小久保村へ移して、爰には纔に除地残れるを、河越城下町広済寺の持とす、

篠田

元篠田三郎と云者住せし故の名なり、去れど其住せし地は今町郷分に属し、爰には其唱へのみのこれり、

石原町

江戸より松山秩父へ、往来の羇亭あり、

高沢袋町

赤間川

南の方町郷分より入、北の方東明寺村に通ぜり、川幅は二間(約3.64m)許り、

神明社

村内修験、良学院の持、

稲荷社

村内修験、龍泉寺の持、

本応寺

日蓮宗、甲斐国身延久遠寺末、長久山と号す、元は江戸谷中感応寺末にて、此辺の触頭なりしが、当山七世日容の時より身延に属す、開山日春寛永三年(1626年)草創し、感応寺の日長を勧請して開山とす、日春は明暦三年(1657年)八月十三日寂せり、本尊三宝を安ず、

生田(イクタ)稲荷社

生田と云所以は知らず、疱瘡神を相殿とす、爰は元稲荷の社地なりしを寺地とせしかば、今もこの稲荷を以て地主神となせり、

番神堂

日天子・月天子・明星天子・摩利支天を相殿とす、

弁財天

稲荷相殿社

楼門

左右に仁王の像を安じ、楼上に鐘を掛け、延宝五年(1677年)の鐘銘を彫れり、

塔頭

円乗坊

読経祖師坐像八寸(約24.24cm)なるを安ず、是に比企郡松山の城主に仕へし長沢某が持し像にて、天正十八年(1590年)松山落城の時、彼長沢は遁ね来て河越鴨田村に住せり、其後厨子の扉を釘もて打付此寺に納めしに、或時厨子の内にて読経の声有ければ、円乗坊偶開き見て始て祖師たることを知る、因て読経祖師と号し、其後は人の拝することも許せりと、

真善坊

東漸坊

西ノ坊

観音寺

天台宗、東叡山の末、高沢山妙智院と号す、開山長盛寛永十八年(1641年)十二月朔日寂す、本尊正観音は立像にて長七寸二分(約21.82cm)、弘法大師の作、左右に百観音を安置せり、

大日堂

大日は坐像にて長一尺二寸(約36.36cm)、これも弘法大師の作なり、

弁天社

鐘楼

鐘に享保七年(1722年)の銘を彫る、

教宝院

当山修験、京三宝院の末、照進山と号す、本尊不動立像一尺七寸(約51.51cm)、理現大師の作、