亀窪村(入間郡・河越領)
亀窪村は河越城の東南二里(約7.85km)にあり、仙波庄又武蔵野里と唱ふ、江戸よりの行程八里(約31.42km)なり、其四境は東の方駒林村に接し、南は大井村に及び、西は武蔵野に続き、北は鶴岡村なり、東西一里(約3.93km)、南北十九町(約2.07km)もあるべし、民家八十九軒、多くは河越道の両辺に住す、昔より河越城付の村にて寛文元年(1661年)・延宝三年(1675年)二度の検地ありて、租税の数も定りしと云、
高札場
村の中程にあり、
武蔵野

村の西南につゞきたる地なり、其野の広さは大様東西の径り十五町(約1.64km)、南北八町(約872.7m)許にして、南の方上富村に限り、北は当村及び下赤坂村にさかひ、東も当村にて、西は下富村に及べり、此地は当村の百姓正左衛門が家にて預り申し野銭といへるものをも納め、又河越城へ年ごとに薪萱料をも納むといへり、正左衛門が家の記を閲るに、彼が先祖は北条安房守氏邦の麾下三上山城守氏郷より出、又天正十八年(1590年)小田原の城已に落城に及びし頃、氏郷は比企郡鉢形城に住せしがその城も敵に渡せしかば、せん方なく同郡日影村の東光寺は氏郷が菩提寺なるを以て、それにかくれ居、幾ほどなく明る文禄二年(1593年)死せり、其子山城某野武士と成て、武蔵野凡十里(約39.27km)余四方の地を心のまゝにしてありしが、慶長年中(1596〜1615年)当城を開きて住居の地と定め、その後近郷山城村所沢村新井村等をも新墾せしことなどあり、猶旧に依て武蔵野のことをあづかりしに、元和年中(1615〜1624年)山城が子庄右衛門の時、その野もことにせばまりしかど、野銭及薪萱三千駄を河越城へ納めしを以、今も千駄萱料と云る名目の青銭を出すといへり、貞享年中(1684〜1688年)高麗郡加須領の内五々村、多磨郡山口領の内三十一ヶ村、当郡河越領八ヶ村と、此武蔵野のことにより諍諭起て、其由たがひに公へ訴へ奉りしが、謀主山口領の百姓勘左衛門が訴訟の旨非義なりとて、やがて追放せられたりと云、此頃より残りし武蔵野の限りは、その四辺へ松の並木を植て境とせしとて今もしかなり、されど古に比すれば百分の一とも云べけれど、かゝる名高き所のわづかにも存して、今見ることをうるは当国にとりては美事とも云べければ、そのさまを図してこゝにのせぬ、
稲荷社
村民持なり、
神明社
地蔵院の持、
地蔵堂
武蔵野木の宮地蔵と称す、坐身にて長二尺五寸(約75.75cm)の像なり、建仁三年(1203年)に記したる縁起一巻あり、其略に云、延暦廿四年(805年)田村将軍北国征伐の時、故有て当所に地蔵堂を造営し、その後建仁元年(1201年)鎌倉右大将家の旗下なりし二階堂隠岐入道(二階堂行村?)が、不思議の霊験を見しかば再建すと、この縁起はもとより妄誕のこと多くして取べきものにはあらざれど、古き堂なることは近郷にもきこへたれば、ゆへある像とはみえたり、
別当 地蔵院
新義真言宗。大和田村普光明寺の末なり、本宮山薬王寺と号せり、
薬師堂
秘仏なりとて、見ることを許さず、