勝瀬村(入間郡・河越領)

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勝瀬村は郡の巽(南東)にあり、三芳野郷仙波庄と云、村名の起り詳ならず、按に【北条役帳】に勝瀬孫六四十三貫文、入東郡勝瀬村の内とあれば、勝瀬氏世々此所を釆地となし、因て得たる村名にや、又地名をもて称号とせしか何にも古き名なるべし、四境東は新河岸川を隔、上南畑村に隣り、西は亀久保村にて、南は苗間村に接し、北は駒林村に及べり、東西一里(約3.93km)、南北五六丁(約545m〜655m)、江戸より行程八里(約31.42km)なり、水陸の田相比すれば陸田の方少く多し、水旱の患あり、用水は苗間村より引来て漑ぐ、民戸八十八、この村に川越街道かゝれり、苗間村より入、亀久保村に出、当村も往昔の領主は伝へざれど、前に云る如く北条家分国の時は、勝瀬孫六が釆地なり、御入国の後文禄年中(1592年〜1596年)三浦次郎左衛門正次に賜りし由、其家譜に記せり、正保(1644年〜1648年)の頃は尾崎武助・三浦八兵衛が知行にて、元禄十年(1697年)に至り是等の知行上りて松平美濃守に賜り、後秋元但馬守が領分となり、それも替りて松平大和守に賜り、今に其家の領分なり、検地は元禄十四年(1701年)時の領主松平美濃守糺せりと云、

高札場

村の中程にあり、

小名

いさ島

そり町

向田

柳合

寺山

馬場

高橋

市海道

大山

中沢

荼たて窪

新河岸川

駒林村より入、村界を流れて上南畑村に注げり、川幅は四十間(約72.72m)余、

榛名権現社

万宝院の持、

末社 浅間社

護国寺

天台宗、郡中古谷本郷灌頂院末、龍王山と号す、本尊三尊の弥陀にて長一尺三寸(約39.39cm)許り、行基菩薩の作と云伝ふ、境内に古碑四基あり、其内建長四年(1252年)十二月八目黒明比丘尼、正長四年(永享三年?のこと?1431年)十一月六日重阿禅門と彫たる二基はもとより有し碑にて、外二基は近き頃井の中より出せし物なりと云、正和(1312年〜1317年)・天文(1532年〜1555年)の年号もあり、何れも何人の碑なることは詳ならず、

弁財天社