長野県松本市会田の堀内姓について

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私、堀内の本籍地は、長野県松本市の会田というところにある。当然、一度も行ったことはない。

さらっと調べたところ、会田という町は、松本平と善光寺平を結ぶ善光寺西街道上の宿場町だ。善光寺西街道は、現在の長野自動車道に似た経路をたどっていたようだ。

戦国時代以前に、会田には虚空蔵山城という城があった。城主は、小県の海野氏の一族だったようだ。元々は海野氏の支族の会田氏が会田を支配していたようだが、いつまにか、海野氏の別の支族である岩下氏に取って代わられた。会田を支配した岩下氏は、会田岩下氏とも呼ぶ。いずれにせよ、会田は小県の海野氏の支配下にあった。

海野氏による会田の支配について、信府統記という本に次のような記述がある。

[信府統記] 十八 松本領古城記 筑摩郡中古城地

会田組 会田虚空蔵山古城地、会田町ヨリ丑寅ノ方一里四町十八間、本城ノ平、東西二町、南北八間、石垣二段アリ、城主会田小次郎広正居住セリ、会田氏ノ先祖ハ、海野幸継ノ二男、初テ爰ヲ分領シテ、会田次郎ト号ス、是ヨリ広正ニ至テ幾代ニヤ評ナラス、真田ヲ名乗リシモアリケルニヤ、始ハ当国衆一味ニテ、小笠原ノ旗下ナリシカ、武田家ノ鋒強盛ナルニ依テ、甲州ヘ降テ、十騎ノ軍役ヲ勤ム、一説会田小次郎中絶ノ時、岩下玄蕃ト云者此城ニ居リシト云フ、岩下モ一族ニテ、近辺ノ要害ヲ守リタリト見ユ、岩下豊後ト云者、広田寺ニ位牌アリトカヤ、豊後ハ海野小太郎幸義ノ弟ナリ、中絶ノ時本家ヲ継ケルコトモアルヘシ、其時節等詳カナラス、会田氏滅亡ハ、小笠原家ニ対シテ逆意ノミナラス、長時、貞慶浪々ノ内、折節身ヲヤツシ、忍ヒテ此辺ニ来リ、計策アリシ時、麻績、会田、青柳等ニテ取沙汰セシハ、小笠原帰国ノコトハ、西ヨリ朝日ノ出ル時節アラハ、此家帰参ノ本意調ヘシナトゝ悪口セリ、後貞慶本意シテモ、暫クハ用捨見合セ置レケレモ、出仕モセス、猶真田家ヘ通ルト聞エケレハ、三家ヲ滅ホサレケルトナリ、此時ノ子細分明ニ知レス、但シ青柳伊勢守(頼長)、小笠原ノ計略落セレ亡ヒケル後、麻績、会田モ程ナク滅亡セリト云ヒ伝ヘリ、

東京大学史料編纂所 編『大日本史料』第11編之2,東京大学,昭和3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/3450625 (参照 2026-03-24)

会田は、天正壬午の乱(1582年)の後に、小笠原貞慶に攻められ、会田の岩下氏は滅亡した。滅亡時に登場するのが、堀内越前守である。堀内越前与三左衛門という名も残っている。

天正十年(1582年)六月二日に起きた本能寺の変で織田信長が討死にしたあと、信濃・上野・甲斐をめぐって、徳川・北条・上杉が対立し、天正壬午の乱となった。徳川は甲斐方面から、北条は上野から、そして、越後から上杉が信濃に侵入した。同年十月二十九日には、徳川と北条の間で和平が成立した。信濃は徳川の切り取り次第となり、以降、徳川は上杉の動向を見つつ信濃支配を進めた。徳川の支配下に入った小笠原貞慶は、同年十一月以降、松本・安曇野で活動を始め、会田に手を伸ばした。

当時、会田は、会田岩下氏の当主(一説に会田小次郎広忠)は若年だったため、家老が対応に当たったようだ。この家老が、堀内越前守である。徳川を背景に勢力を背景にした小笠原貞慶に対し、会田では、上杉の勢力下に入り対抗した。会田近辺の矢久(柳生)に砦を新設した。小笠原貞慶は矢久砦を攻め落し、堀内越前守は討死にし、海野氏による会田支配は終わった。

大日本史料に掲載の「岩岡家記」では、会田攻めについて下記のように記す。

[岩岡家記]○笠系大成附録所収

一午(天正十年)の十一月、会田(東筑摩郡)の城の者とも越後へ内通仕、河中島より合力を乞、やきうの入に小屋を立居申候、是へ御働被(小笠原貞慶)成候時、一日に三度のせり合御座候、初日の朝拙者(岩岡織部)生捕を仕候処に、甲州牢人伊藤と申者乞申候付、彼生捕を出し申候、則其首を持て御前に罷出、伊藤身上相済申候、二番合戦に、御先手衆足場悪敷御座候て、三町ほどしさり申候、其時犬甘主馬助組衆弐拾騎、御旗本衆三拾騎、仁科衆拾騎ばかり、塩尻衆五六騎、右合六拾五六騎走り出突返し、小県の者討取、殊に小屋主堀内越前与三左衛門を、川窪軍兵衛、青木加賀右衛門両人にて相討に仕候、其時拙者も壱人討申候、扨小屋も御手に入申候事、 会田衆景勝ノ援ヲ得テ柳生ノ小屋ニ籠ル 小屋主堀内与三左衛門

東京大学史料編纂所 編『大日本史料』第11編之2,東京大学,昭和3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/3450625 (参照 2026-03-24)

寿斉記は、会田攻めについて次のような記載がある。

[寿斉記]○小笠原代々記所収

貞慶公松本へ御本意之事 一 相田若年に付、家老堀内越前再拝を取、籠城仕、然共即時に御蹈崩御手に入、越前守大手の木戸へ走出、討死仕候事、 会田ハ若年ニツキ家老指揮ス

東京大学史料編纂所 編『大日本史料』第11編之2,東京大学,昭和3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/3450625 (参照 2026-03-24)

笠系大成の「七 貞慶」にも会田攻めについての記事がある。

同年(天正十年)十一月上旬、会田城郡士(郡士不知孰)、通越後、請兵於河中島、至柳生構小屋、貞慶出兵、一日三度相戦、其初戦岩岡織部活擒一士、甲州牢士伊藤某乞之、以其首拝謁貞慶、為家士矣、其二戦難路労足、先鋒既退三町許時、犬甘主馬助(不知孰)二十騎、貞慶旗本三十騎、仁科衆兵十騎許、塩尻衆五六騎奮戦而撃捕小県之兵、既破彼小屋、河窪軍兵衛、青木加賀右衛門、争励撃捕其党首魁堀内越前守、(或作与三左衛門)此時大津式部、土橋源丞等戦死矣、(或書曰、会田某依若年、家老堀内越前守持城、奮戦於大手城戸戦死)

堀内越前守については、小笠原貞慶による会田攻めの前年、天正九年にも活動が見られる。伊勢神宮の御師である宇治久家の日記(信濃国道者之御祓くばり日記)に会田の「ほりの内越前守殿」として登場する。

信濃国道者之御祓くばり日記
天正九年(かみとのみのとし)(1581年辛巳)宇治(荒木田)七郎右衛門尉久家
かみ数廿八まいとし申候
あいた(会田・筑摩郡)
岩下殿
(略)
同あいた
(略)
ほりの内越前守殿 のし五十本、帯茶十袋
同名わかさ殿 のし廿本、茶五つ
同名六朗左衛門殿 のし廿本、茶五つ
同名藤兵衛殿 茶三つ

『新編信濃史料叢書』第10巻,信濃史料刊行会,1974. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9537189 (参照 2026-03-24) 60コマ目

堀内越前以下の堀内姓の人たちは、会田の中で、当主である岩下殿(海野氏支族会田岩下氏?)の一団につぐポジションを得ていたようだ。

堀内越前守以前の会田の堀内姓については、「信濃史源考」という本に次の様な記述がある。

当時、会田の虚空蔵山城は、岩下氏の居城にして軍役十騎、武田逍遥軒の組下に属せり(信濃の武士の項)。虚空蔵山城は会田の東北に在り、此の外笹城、秋吉砦、中野砦、雨がや砦など近辺に在り、皆な会田の出丸なりとあり(千曲之真砂)

海野藤左衛門宗守(後三河守と云ふ)塔原廿騎の軍役を勤仕し、光大和や其の組に属し、同族会田の海野伊勢守幸忠(岩下)、海野平八郎信藤(堀内)十騎の軍役を勤仕す(信濃の武士項八百五十四)。

小山愛司 編纂『信濃史源考』第6巻 (巻9),歴史図書社,1976. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9537210 (参照 2026-03-23)

会田の地侍たちは、海野氏支族の軍役十騎で、武田逍遥軒の指揮下にあったようである。

永禄十年(1567年)に武田信玄が家来たちに提出させた起請文(生島足島神社文書)が残っているが、ここにも、会田に関係のある堀内姓が登場する。「堀内仁助貞維」という人物である。

六六 桑原康盛等連署起請文-84

城(堀カ)内仁助
桑原式少輔(部脱カ)
塔原藤左衛門尉

敬白起請文相違之事
一 此以前奉捧候数通之誓詞、弥不可致相違之事
一 奉対 信玄様、逆心謀叛等不可相企之事
一 為始長尾輝虎、自御敵方以如何様之所得申旨候共、不可致同意之事
一 甲・信・西上野三ヶ国之諸率(卒)、雖企逆心、於某者無二奉守 信玄様ノ御前、可抽忠節之事
一 今後惣別催人数、無表裏、不渉二途、可抽戦功之旨可存定之事
一 万一三河守奉対 上意様ヘ企逆心候者、涯分致意見、無承引者、三河守前引切、無二甲州ヘ可奉抽忠節之事

上梵天・帝尺(釈)・四大天王、下内海外海龍王龍神・堅牢地神・熊野三所権現・加茂・春日・稲荷・祇園・八幡大菩薩、殊ニ諏方上下大明神・冨士浅間大菩薩、別而甲州一二三大明神・御嶽権現之御罰蒙、於今生者黒白受二病、於来世者阿鼻無(間脱カ)地獄可致堕在者也、仍起請文如斯、

永禄十年丁卯 八月七日

桑原式部少輔 康盛 (花押)(血判有)
塔原藤左衛門 宗□ (花押)(血判無)
城(堀カ)内 二(仁)助 貞維 (花押)(血判無)
山崎善七郎(ママ) (花押)(血判無)
同名藤五郎 貞吉 (花押)(血判無)

跡部大炊助殿

注)
懸紙ウハ書で「桑原式少輔」が墨濃く目立つ。血判は桑原康盛のみにある。この一族は、信州の海野三河守幸貞の被官衆であろう。(幸貞については、一七-⑳を参照。)桑原氏は更級郡桑原(更埴市)、塔原氏は筑北地方の塔ノ原(東筑摩郡明科町)を本拠とする海野氏一族である。塔原氏の名は七〇-90岩下幸実等連署起請文にもみえる。山崎氏・堀内氏も、筑北地方の地侍であろう。天正七年(一五七九)二月の『上諏訪造宮帳』には大宮御門屋のところに「明科・塔原之郷 正物壱貫七百文 代官 志摩守・山崎道中」とみえる。誓約事項の最後の条に「万一、海野三河守が上意(信玄)様に対して逆心したら意見をし、承知しなかったら縁を切って、甲州(信玄)に忠節を尽くします。」といった意味が含まれていて注目される。この三河守は海野三河守幸貞であり、幸貞自身も起請文(一七-⑳)を提出している。上杉氏の勢力と接する地域であるため、特に警戒されたのであろうか。なお、一書(「丸山史料」)には、三河守を「桑原式部父也」と記している。

生島足島神社 [ほか]編『信玄武将の起請文 : 重要文化財・生島足島神社文書』,信毎書籍出版センター,1988.4. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12670238 (参照 2026-03-25)

先に引用した『信玄武将の起請文』には、『御願書并誓詞写』も掲載されている。こちらによれば、藤五郎貞吉も、堀内姓である。

年次不祥 御願書并誓詞写 全
宮入文書

桑原式部少輔 康盛(花押)
塔原藤左衛門 宗栄(花押)
堀内仁助 (名乗ナシ)(花押)
山崎善七郎 (名乗ナシ)(花押)
堀内藤五郎 貞吉(花押)
跡部大炊助殿

堀内仁助と堀内藤五郎は、三河守の組下であるようだ。同書によると、三河守は海野三河守幸貞ことらしい。 海野三河守幸貞について、次ぎの様に説明している。

『大塔物語』(応永七年-一四〇〇-に起った信濃国内の記録で、文正元年-一四六六-成立)に「海野宮内少輔幸義、その舎弟中村平八郎、会田岩下」とある。起請文の海野氏はこの系を引く一族で、幸貞は信州の会田(東筑摩郡四賀村)に本拠を持ち、筑北地方(麻績村・坂井村・坂北村・本城村・四賀村など)に勢力を張った、岩下海野氏の統率者である。天文二十二年(一五五三)頃武田氏に下った。『甲陽軍鑑』に「信州先方衆 あひた 十騎」とある。

上記をまとめると、永禄十年の時点では、

  • 会田周辺にいた堀内姓は堀内仁助と堀内藤五郎の二名を確認
  • 堀内姓の二名は、会田を含む筑北地方を統率する海野三河守貞幸の支配下に入っていた
  • 海野三河守の元で信州先方衆として組織されていた。

といったことが導ける。

以上をまとめると、戦国時代の長野県会田の堀内姓は、海野氏(国人領主)に従う地侍でだったようだ。天正年間には、越前守などという大層な名乗り(受領名・武家官途)を名乗っていたが、所詮地侍だった。