寺尾村(入間郡・河越領)

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寺尾村は郡の巽(南東)にあり、郷庄の唱及び江戸よりの行程は前村に同じ、民戸七十五、四隣東は新河岸川を隔てゝ牛子村に境ひ、西は藤間村に隣り、南は福岡・古市場の二村に接し、北は下新河岸及び砂村に続き、巽(南東)の方は悪水堀を境として川崎村に至れり、村の大さ広き所にては東西十町(約1.09km)余、南北八町(約872.7m)許、水田は少く陸田多し、御入国以前のことは伝へざれど、村内に諏訪右馬亮居城せしなど云り、【北条役帳】に二百貫文寺尾諏訪三河守とあり、又【小田原記】に武州寺尾の住人諏訪右馬助とあり、されば彼諏訪当時此地を領せしこと知べし、されど橘樹郡寺尾の支郷馬場村にも、諏訪三河守が居城跡ありて、彼人の馬場の旧跡なりと云、又同郡西寺尾村建功寺の旧記に、村内白幡明神は永享七年(1435年)寺尾の城主諏訪勧請すとあり、又秩父郡寺尾村にも諏訪の旧跡ありと云、諏訪が城跡四所まで寺尾と号するも奇と云べし、御入国の後は御料所にて、寛文十二年(1672年)八月中村八郎左衛門検地せり、後酒井河内守が領主の時川越城附の村となり、今は松平大和守が領する所なり、

高札場

村の中央勝福寺の前にあり、爰に嘉元三年(1305年)六月廿七日と鐫たる碑あり、

小名

猫山

艮の方を云按に処々城迹には根小屋の地名多く遺れり、此地も諏訪右馬亮が城迹の傍なれば、もし根小屋を唱へ誤りて、れこやまと云にはあらずや、

城山

舟戸

久保

柳下

五反田

新河岸川

西の方下新河岸牛子村境より流れ来り、巽の方川崎村へ達せり、川幅十四間(約25.45m)余、

山王社

村の鎮守なり、神体は九体、何れも束帯の像にて彩色を施せり、長三寸(約9.09cm)坐像なり、勝福寺の持なり、

末社 天神社 稲荷社

石神社

同寺の持、

稲荷社三宇

一は村民の持、二は勝福寺の持なり、

勝福寺

天台宗、仙波中院の末、寺尾山蓮乗院と号す、されど寛文中(1661年〜1673年)に作りし常香盤に、入東郡寺尾村永光山照明院勝福寺とあり、後に今の如く山号院号を改し事知らる、天長年中(824年〜834年)慈覚大師の開闢と云伝ふれど拠ろはなし、己が法脈の開祖なれば、大師を以て開山と唱るなるべし、さはあれ中興開山秀興は、建武元年(1334年)の示寂といへば旧き寺院なることは知べし、本尊三尊の弥陀長二尺(約60.6cm)余立像、慈覚大師の作と云、此外薬師勢至を置り、元は当寺門前の小堂にありしが、堂宇破損せし後爰に安ずと云、境内の墓所に、建長三年(1251年)三月十八日と鐫たる六尺(約1.82m)許の断碑一片あり、何人の碑なるを知ず、

弁天社

境内の鎮守なり、

阿弥陀堂

本尊は慈覚大師の作にて、坐像四尺五寸(約136.35cm)許、堂の傍に応安二年(1369年)八月廿五日逆修1と彫り、左右に光明遍照の文を彫たる碑あり、何人の逆修碑なる事を知ず、此外に断碑五六片あり、

諏訪右馬亮居城蹟

村の北によりてあり、当村より上新河岸・下新河岸の三村にまたがり、本丸二丸三丸等と覚しき所あり、東西は僅の間なるべけれど、陸田の間に民居などありて今より料り知るべからず、又砂村の境に長百間(約181.82m)余り、舖2十二間(約21.82m)許りの土居あり、是を並木と呼ぶ、是もむかしの要害なるべし、

脚注

  1. 生前に自らの死後の冥福(往生菩提)を祈って仏事を行うこと。 [戻る]

  2. 間口(幅) [戻る]