藤馬村(入間郡・河越領)
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藤馬村は古へ藤間村と書し由、川越城より南方一里(約3.93km)余、江戸より行程九里(約35.34km)、仙波郷に係り三芳野の里と称せり、元禄九年(1696年)の水帳に、高麗郡下仙波の内藤間村と記したれど、高麗郡とは地形も隔てたれば取べからず、東西十町(約1.09km)余、南北十五町(約1.64km)余、東は寺尾村、南は鶴岡村、西は下松原村にて、北は砂新田なり、されど東南の方に入会の村なれば、定かに境界は分ちがたし、民戸百二十余、水田はなく陸田のみなり、村内十五町(約1.64km)余、南北を貫きて一条の往来あり、川越街道にて鶴岡村より砂新田に至れり、道幅四五間(約7.27m〜9.09m)、此村正保年中(1644年〜1648年)は米津彦七郎知行せり、貞享三年(1686年)・元禄八年(1695年)の再びに時の地頭米津梅千助検地せり、何の頃か川越領となりて今もしかり、
高札場
村の中通にあり、
小名
蔵屋敷
東の方にあり、二十四段(約2.38ヘクタール)許の処を云、地頭米津氏の蔵屋敷ありし所なりと云ふ、
見隠前
柳田
清水坂
藤山
諏訪社
東光寺の持、下同じ、
稲荷社
天神社
熊野社
神明社
東光寺
曹洞宗、渋井村蓮光寺の末、医王山と号す、柳沢権太夫開基す、開山僧舟海久呑万治三年(1660年)四月二日示寂せり、本尊薬師は坐像にて台座ともに一尺(約30.3cm)余、安阿弥の作といふ、
衆寮
弥陀を安ぜり、もと西光寺と云る寺院の本尊なりしが、廃寺となりてこゝに移せしといへり、