中古所唱郷庄並保名領(入間郡)
金子郷
【東鑑】寛喜二年(1230年)六月十日の条に、武蔵国在庁等注申云、去九日辰刻、当国金子郷雪交雨降云々とみゆ、七党系図村山党の内金子六郎家範等出たり、是在名ならんには古き地名なること論なし、
山口郷
応永四年(1397年)八月郡中北野村天神領の寄附状に、山口郷内北野宮とみえ、又七党系図村山七郎家継が孫、山口太郎季信を始として、山口氏を多く載たり、これ等みな当所に住せし人たるべし、
宮寺郷
郡内三ヶ島村長宮にある、正長元年(1428年)九月廿三日の棟札に、武州入東郡宮寺郷中氷川社殿造とあり又七党系図村山党の内宮寺五郎家平等を載す、是地名をもて称号とせしなるべければ、旧き唱たることはしらる、
大井郷
大井町農民の所蔵せる天正七年(1579年)の文書に、大井郷とのせ、遠山左衛門が奉て出せし下知状〈亥年とあり、天正十五年(1587年)なるべし、〉等にも、武州大井郷とのせたるは今の大井町のことにて、元郷名なりしことしらる、
勝郷
塚越村住吉社永享元年(1429年)の棟札に、武蔵国入西郡勝郷とみゆ、及【小田原役帳】に勝の内云々と記したり、又【回国雑記】に勝呂といへる所に至て、名に聞えし薄など尋て読る、旅ならぬ袖もやつれて武蔵野や、勝呂の薄霜にかれにき、とあり、今はこの紀行にしるせる如く勝呂と書り、又【東鑑】に須黒兵衛太郎承久の乱(1221年)に討死せし由をのす、是文字は異なれども、則勝呂にてこの処より出たる人なるべし、
毛呂郷
法恩寺年譜録に、応永三十三年(1426年)越生山城次郎入道宏秀の門族忠秀なるもの、毛呂郷の内四至を限りて曇秀律師に寄附せしことみゆ、又【東鑑】に毛呂豊後守秀光云々と見ゆ、此余毛呂氏の人関東の記録に往々みえしは、皆当所に住して在名を氏とせし人なるべし、
越生郷
郡中法恩寺年譜録承元(1207年〜1211年)・宝治(1247年〜1249年)の頃の寄附状に、入西郡越生郷云々とみえたれば、中古よりこの郷名を唱へしことしらる、
河肥庄
【東鑑】文治二年(1186年)七月二十八日の条に、帥中納言奉書到来、新日吉領武蔵国河肥庄、地頭封捍去々年、乃貢事云々と載せ、及法恩寺年譜録応永十三年(1406年)十月十五日の寄附状に、河越庄宿料郷内越生八郎入道跡云々とみえたり、永禄二年(1559年)改の【小田原役帳】には河越三十三郷と記す、是もしくは河越庄三十三郷と云義か、今は領名のみに唱ふ、
春原庄
法恩寺年譜録に載たる宝治元年(1247年)、鎌倉将軍家より越生左馬允有高への下知状に、武蔵国入西郡春原庄広瀬郷〈上に見ゆ〉とみゆ、及建治二年(1276年)越生太郎長経が法恩寺領寄附状に、武蔵国春原庄広瀬名之田在家とみえたり、又康応元年(1389年)浅羽豊楠丸が同寺へ寄附の状には、春日原庄広瀬と書たるは偶誤り記せしならん、
吾那保
建治二年(1276年)越生太郎長経が法恩寺領寄附の状に武蔵国吾那保之在家野畠山云々と見えたり、此余同寺年譜録の内承元(1207年〜1211年)・寛治(1087年〜1094年)・弘安(1278年〜1288年)・康応(1389年〜1390年)等の寄附状には、吾那上下とのみ記したれど、是も吾那保の上下ならん、又同書文治四年(1188年)の条に、吾那領とのせ、応永四年(1397年)・享徳四年(1455年)二度の寄附状には、吾那村とあれど、是等は全く田父野翁のまうすにまかせて記せしより誤りしならん、又郡内堂山村最勝寺所蔵文安三年(1446年)の文書に、吾那堀の内釈迦堂とあり、堀ノ内は今堂山の小名にのこりたれば、この辺元吾那保に属せし証となすべし、
国延名
比企郡正大村に弁せり、
是永名
応永(1394年〜1428年)・文安(1444年〜1449年)・康正(1455年〜1457年)等の法恩寺寄附状に、入西郡越生郷是永名とのせたり、
恒弘名
応永三十二年(1425年)法恩寺寄附状、及文安三年(1446年)堂山村最勝寺の寄進状、文明四年(1472年)郡中小杉村天神社の棟札等に、入西郡越生郷恒弘名と出たり、
則次名
応永三十三年(1426年)尼禅智が法恩寺領寄附状に、入西郡越生郷則次名箕輪田窪田五段事云々とあり、箕輪田は今も村名に唱へ、窪田はかの箕輪田の小名となれり、此余前に出せる建治二年(1276年)同寺の寄附状に、広瀬名と云ものあれど、是は全く村と書べきを誤り記せしならん、
小山領
法恩寺年譜録応永四年(1397年)式部丞光泰と云ものより同寺へ寄附の状に、入間郡小山領家田云々と載たり、今郡中に小山村あるは彼遺名なるにや、
箕和田領
これも年譜録に、応永四年(1397年)三月廿二日光忠箕和田領七貫文の地を寄附すとあり、今の箕和田村の辺なるにや、