河越城

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河越城は郡の西の方にあり、其郭中のさま西を首とし東を尾とす、本丸・二丸・三丸・外曲輪・田曲輪・新曲輪〈本丸の後を廻りし田曲輪・新曲輪の二を通じて帯曲輪と呼べり、〉三の櫓台、十二の城門等そなはりて、本城は山により、外郭は池を背にして西南の二面のみ平地なり、兵家にいへる平山城なるものにして、天然要害の地なり、【小田原記】等の書によるに、当城は長禄元年(1457年)四月太田備中守入道道真上杉修理大夫持朝の命をうけて、仙波にありし城を引移して、要害の縄張ありし処なりと、又土人の伝によれば、河越城は古へ今の高麗郡上戸村にありしといへり、よりて今其地につきて搜窮するに、証跡とをぼしき事少なからず、もとより上戸の辺、昔は当郡に隷して河越の内たりしことは、既に庄名の条に弁ぜし如くなれば、その理なしとせず、然らば当城始は上戸にありしを、後又今の所へ移せしならん、【小田原記】に仙波より移りしといへどいかゞあるべき、【東鑑】にのせたる河越太郎重頼等の事跡、及び【南方紀伝】【桜雲記】等に、正平二十二年〈北朝貞治六年〉(1367年)関東宮方一揆兵を起して、武州河越の城に楯籠るといひ、【武家日記】に応安元年(1368年)六月武州平一揆河越の舘に引籠るとみゆ、又【鎌倉大草紙】に上杉修理大夫持朝宝徳の頃出家して道朝と号し、河越城に居りしなど云ことは、すべて高麗郡上戸村旧蹟の条に出せり、又長禄元年(1457年)こゝへ移せし頃は、城塁わづかに今の本丸のあたりのみにて、後世掻上城と云類なりしと云伝ふ、或は云この城を取立しは文明元年(1469年)六月にて、かつこれを営みしものは、太田道真にはあらで其子道灌なり、すべて道灌が築きし城は当国に四か所まであり、江戸・岩槻・忍と当城なりと、又云当城の成功は文明元年(1469年)なれど、功を起せしは文正元年(1466年)なりと、彼城々皆道真父子、その君上杉氏の命をうけて造立せしは勿論なるべけれど、かの父子の在城せしは城代としてこもりしか、又は賜はりてその居城とせしなるかしるべからず、其後文明九年(1477年)太田図書助資忠・上田上野介某等、松山衆をひきひて此城にこもりしと【鎌倉大草紙】に見えたり、同十八年(1486年)太田方衛門入道道灌、上杉定正の不興を蒙り、相州糟谷の舘にてうたれければ、当城へは定正の子朝良の執事曽我兵庫頭をこめ置り、かくて上杉定正は明応二年(1493年)に卒し、其子朝良つぎしが是も永正九年(1512年)に卒し、その弟朝興つぐ、朝興は江戸の城にありしが、大永四年(1524年)正月十三日北条氏綱にせめおとされて逃れ来り、当城にとゞまる、是より朝興久しく爰に在城し、北条氏と常に戦争のことありしが、天文六年(1537年)病にかゝりて卒す、其頃遺命して北条氏と戦ひて勝利を得なば、多年の怨を散せんこと中々読経供養にもまさるべしと云けるにぞ、其子五郎朝定父の遺命を肺腑に銘し家人等とはかり、同き年の七月十一日小田原の城へおしよせて、有無の一戦を決せんと用意専らなりしを、はやく氏綱きゝしりてゐて、さかよせにして朝定を責亡さんといそぎ、人数をひきひて府中へかゝりおし来りける、朝定今年纔に十三歳何のわきまへもなければ、叔父左近大夫朝成を大将とし出むかへて戦はしむ、然るに朝成一戦にうちまけて平岩隼人に生捕れけり、大将かゝるさまなれば、士卒散々に乱れける、爰におひて朝定籠城すべき謀つきて、比企郡松山城へ敗走せり、氏綱思のまゝにうち勝しかば、やがて城に入て普請を沙汰し、城代として同氏左衛門大夫綱成をこめ置て凱旋せり、いくほどなく氏綱卒して、其子左京大夫氏康つぐ、爰に管領両上杉は多年北条氏と戦ひやむ時なく、やゝもすれば負軍せしことを憤り、一挙してかの一族をうちほろぼさんと、山内の上杉憲政謀主として、駿州今川氏と調しあはせ、天文十四年(1545年)今川は領国駿州の境目へ人数を出し、両上杉は古河公方の動座をこひて当城をさして出張し、八万の人数を以て十重二十重にとりかこみ、城よりうつて出は加攻に乗とりて、城兵をみなごろしにせんとの勢ひなり、爰に於て氏康その注進をきゝ、いかにもして寄手の軍兵を追ひはらはんと謀をめぐらせども、多勢の敵なれば容易には戦ひがたしと、先軍勢を催促して駿州の後詰を命じ、其余分国のかためを手分して、自らは八千の人数を率ひ後詰とし打立、当城の下三木と云所まで進み来りて、はるかに寄手の方をのぞめば、さしもの曠野に充満せり、やがて人数を出して戦ひを挑みしに、敵勢競ひかゝるとそのまゝ府中の方へ敗走しければ、上杉勢あざけり哂つて引揚ける、かくの如くすることすべて四度に及びければ、後々はたとへ氏康よせ来りても何ほどのことかあらん、たゞそのまゝに打すておかば、引いるべしとてとりあはぬやうになりければ、氏康はや時分はよしと夜討の用意し、旨との大将多米周防守を送り、備として軍兵いづれも胴肩衣相言葉を定め、氏康令して曰く、敵は八万味方は八千十人に一人の相手なり、勝とも首をとるべからず、切捨にせよとて、頃は天文十五年(1546年)四月廿日の宵暗に乗じて両上杉のひかへたる砂窪の陣へ無二無三に切て入る、敵は案外のことなれば大におどろき、馬よ物具よとあはてさはぐ所を、氏康自ら薙刀をとつて切て廻り、敵十余騎を斬倒し、思ふまゝに切なびけゝるにぞ、憲政はかなはじとて上州をさして逃行ける、家子郎等はみなおもひおもひに散乱す、扇谷の朝定は城の北の方に陣せしが、是も夜討にあひてあわてさわぎし所をきり立られ、朝定は乱軍の中に討死し、難波田弾正は東明寺口の古井に陥て死し、其子隼人も討れければ、此も惣敗軍とぞなりにける、扨も氏康は思ふ侭に切勝て、人数を集めて息をつかせける、かくて夜もほのぼのと明渡りしかば、古河の晴氏、氏康の備をみて、敵は案外に小勢なり、いざ一かけにやぶらんと、備の頭をふりむけて人数をすゝめんと色めく所を、城将左衛門大夫綱成は思ふ心ありて、夜軍始りしより大手の櫓に上りて始終見物せしが、古河公方の旗の手の動くを見て、時分はよしとて城戸をひらき、自ら真先にすゝみて切てかゝりければ、古河の軍兵等案外にうたれて、一たまりもなく崩れて敗北せり、かくて氏康は城中に入て士卒を休息せしめけり、此事近郷に聞えければ、瀧山の大石源左衛門、鉢形の藤田右衛門佐等を始として当城に帰降せしにより、氏康の威光大に振ひけり、この後城代左衛門大夫綱成は氏康の命によりて、居城玉縄へ帰り、当城へは大道寺駿河守直繁を置て守らしめしと、此事跡【管領記】【関東古戦録】【小田原記】等に見えたり、其後天正十八年(1590年)太閤秀吉小田原出陣の時、羽柴利家・上杉景勝当国の諸城へ発向し、使を立て北条家へ和議をいひ入しかば、直繁籠城にたえざる事を慮り、和議に及て出城しける、其後御当家の御料となり、当城を酒井河内守重忠に賜はりしが、慶長十四年(1609年)上州厩橋へ所替ありて、弟備後守忠利に賜へり、忠利寛永四年(1627年)卒しければ、其子讃岐守忠勝に父の遺蹟を賜ひしに、同十一年(1634年)若州小浜へ所替ありて、其後城主も定らざりしほど、相馬虎之介を御城代に置れたり、同十三年(1636年)堀田加賀守正盛に賜ひ、正盛城主たる事わづかに三年にして、同十五年(1638年)水谷伊勢守に仰せて再び御番城たりしが、明る十六年(1639年)松平伊豆守信綱へ賜はれり、信綱が孫伊豆守信輝が時、元禄七年(1694年)下総国古河へ移りて、当城は松平美濃守吉保へ賜はれり、其後宝永元年(1704年)甲府へ所替ありて、明る二年(1705年)三月より秋元但馬守喬朝が居城となり、数代こゝを領せしが、明和四年(1767年)閏九月十五日羽州山形へ移されて、同五年(1768年)三月松平大和守直怛に賜はり、子孫世々居住して今に至れり、抑当城今の如くに外郭まで備はりしは、松平伊豆守信綱が城主たりし頃修造せしより後のことにて、それより前はいと狭き構なりしと云、田曲輪・堤西大手・南大手・丸馬出等出来す、由て今高松院は城内となれりと云ふ、されば北条氏抱の頃は、今の本丸の辺地の高きによりて要害をなせしなり、其形状に至りては左に弁ぜり、

本丸

今は家作なし、南北に門あり、南にあるを天神門と呼ぶ、此門は昔この城高麗郡上戸にありし時の城門なりと 云、北にあるを北門と云、櫓二ケ所あり、西北の隅にあるを虎矢倉と云、二重の櫓なり、西南の隅にあるを富士見櫓と呼ぶ、この櫓城中第一の高き所なり、富士山目のあたりに見ゆればかく云なるべし、土居は北門より西の隅に至り、又虎矢倉より西南の隅富士見櫓に及び、こゝよりをれて東の方天神門に至る、この門より又東の方へめぐり、それより北に至りて北門まですべてつきめぐらし塀をかく、其外に堀あり、古の地形を想像するに、この本丸の地よほど高くして要害の地なればこゝを誥の城として、今の二丸三丸あたりまでをとりいれきつきしものと見ゆ、御入国の後修築せられしにも、猶そのまゝにてありしを、寛永十五年(1638年)の頃時の城主松平伊豆守信綱外曲輪をきづきて、今のごとくになりしなり、

天神社

本丸の東の方巴堀の外にあり、三芳野天神と号す、社領二十石の御朱印を賜はる、縁起を閲に足立郡大宮町の氷川大明神は大社にて、国中の鎮守なれば爰に勧請すと、又云中古神託ありて法華の法昧に満足するゆへ、浄土に往来して極楽自在なりとありけるゆへに、本地堂に観音を本尊として地蔵を脇立とす、後に示現の告ありて十一面観音を本体とす、不動毘沙門を脇立とす、又深秘の神体なりとて古き銅の扇あり、其図は左に出せり、又いつの頃か北野天満天神を勧請して、此社内に祝ひこめり、これは北野の本地も同体なれば、かくの如く相殿として祀りしならん、大猷院殿の御時しばしば此社へわたらせ賜ひ、其次をもて御放鷹又は騎射など御覧ありしとなり、又その頃の事にや、江戸西丸御普請ありしとき、六月の初より八月の末まで御座を当城へうつされけり、其頃当社は初雁を聞の名所にて、年ごとに雁の来ることその時をたがへずと聞し召され、人を三所にわかちをかれて、終夜きかしめられけるに、例のごとく初雁北の方より飛来り、三声おとづれて南の方へゆきしと言上しければ、奇特の事なりと仰せられけるとぞ、抑爰が雁の名所と云事は、【伊勢物語】業平中将東国へ下りけるとき武蔵国入間郡三芳野の里に来りて、ある女にあはんと云ける、女の母なん藤原なりけるによりて、中将にゆるさんとて歌を読てやる、三芳野のたのむの雁もひたふるに、君が方にぞよると鳴なる、中将のかへしに、わが方によると鳴なる三芳野の、たのむの雁をいつかわすれん、といへるによりて、当所を雁の名所といへるなり、当社の宮居はもとわづかなるつくりなりしが、大猷院殿御遊歴ののち、酒井讃岐守忠勝に仰せて、造営の事をはからせ給ふ、よりて寛永元年(1624年)二月の中頃より事始ありて、同き十一月下旬に至て功を竣れり、こゝに於て同二年(1625年)二月廿四日遷宮の式行はる、導師は大僧正天海なりと云、以上の説は民部卿法印道春が撰ぶ所の縁起にみえたり、別当はすなはち高松院なり、

本社

南方なり、神体の銅扇模様は、雲形に半月薄万年青との様なる草二本ある絵なり、その図は右のごとし、 三芳野天神 神体の銅扇

幣殿

拝殿

銅燈籠 二基

宝永三年(1706年)十二月廿五日秋元但馬守喬朝が、寄納するところなり、

蛭子社

大黒社

本地堂

石鳥居

巴堀

天神社の北にて、本丸よりは東の隅にあたれり、巴形をなす故にこの名あり、

二丸

本丸の北の郭にて、今城主の居所こゝにたてり、其家居は東へよりたる所にあり、こゝより南にあたりて本丸の北門あり、又東にも門あり、これを蓮池門と呼ぶ、又三丸へ出る所の門を二丸門と号す、これも上戸村より引移したる門なりと云、

菱櫓

家作の北にあり、二重櫓なり、これを菱矢倉と呼ぶ、その故を詳にぜず、

三丸

本丸二丸の西にあり、北の方より西南へ推まはして、土手を築き塀をかく、其廻りに堀をめぐらせり、門は二丸へいる所に一ヶ所、西の方外曲輪へ出る所ヘ一ケ所あり、是を三丸門と呼ぶ、是も当城上戸にありしときの門なりといひつたふ、

外曲輪

三所あり、共に三丸の西なり、其三丸の堀に添たる所には、侍屋舖作事役所等あり、門は六ケ所あり、其一は前に云へる三丸へ通ずる門なり、西の端本町へ出る馬出の内に門あり、西大手と云、三丸門と西大手の間にあるを中門と云、此より南に因たる方に埋門あり、又本丸へ添て田曲輪へ通ずる門を田郭門と云、此門より少しく西により南大手の門あり、中門及び埋門の外に喰違の土手あり、此内にも待屋舖あり、爰より外西大手の内、又一郭にて往来の左右は皆侍屋舖なり、此外曲輪より田曲輪門を経、天神門を入て本丸へ登れり、又三丸門・二丸門を経ても本丸へ登る、此外郭及び下の田曲輪・新曲輪は伊豆守信綱が築く所なり、

田曲輪

本丸の西南富士見櫓の下田曲輪門より東北の方、新曲輪の接地まで、本丸の構堀を廻りたる郭なり、此曲輪の東に清水門と云門ありて、城外への往米を通ず、

天神社

清水門の内にあり、本社は本丸の内にあれど、外曲輪を築きたてし後、諸人参詣を願ふ者の為に爰に勧請せりと云、此所より本丸への間は、から堀一重をへだつるのみ、爰より本丸を望めば、古木森々としていと奧深く見ゆるなり、

神楽堂

楼門

惣黒塗なり、楼上に鐘あり、寛文元年(1661年)別当乗海が銘文あり、

別富 高松院

社の傍に居れり、三芳野山広福寺と号す、天台宗にて喜多院の末なり、

八幡社

清水門の内にあり、神体は岩の上に腰をかけたる像なり、高松院持、

新曲輪

二丸の北新曲輪門より二丸本丸の構堀を廻りて、東南の方田曲輪の接地までの郭なり、この郭に米蔵及び郷蔵あり、田曲輪と此曲輪との外には、すべて土手をきづきて堀水めぐれり、其堀のつゞき城背にあたれる所へ、よな川の水をそゝぎかくれば、常に水かさ十分なり、

赤間川

城下町の西より東の方へ廻りて流る、入間川の枝流なり、郡中小ヶ谷村よりわかれて城下に至る、其間一里(約3.93km)を隔つといふ、下流は二十六七町(約2.84km〜2.95km)ほどにして、伊佐沼村の沼へ入る、川幅五六間(約9.09m〜10.91m)より八九間(約14.55m〜16.36m)にいたれり、