養寿院門前町

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養寿院門前町は南町の西につゞけり、その余高沢町の西及杉原町の北にも、同名の町少しばかりあり、

養寿院

青龍山と号す、寺伝云寛元年中(1243年〜1247年頃)河越遠江守経重開基す当時は密院にて昔円慶と云僧住職せしかば、天文年中(1532年〜1555年頃)時の住僧隆専、曹洞宗大源派の僧扇叟が徳を慕ひ、其身住持職を退きて扇叟に譲りし故、今扇叟を開山とすと、然るに今本堂に掛る鐘銘をみれば、是円慶が勧請によりて、遠江守経重大旦那として造りし由を彫る、因てをもふに此鐘ある故に、今経重が開基なりと云説を唱ふるが、抑此鐘は日吉山王社前のものなることは、下に出せる銘文にも歴々たり、又もとの河越上戸村日吉社別当修験、大広院の縁起によるに、阿闍梨円慶は大広院の歴代の内にて、平経重は彼院の大旦那なり、況日吉山王の文あるときは、此鐘上戸大広院のものなること論なし、おもふに天文中(1532年〜1555年頃)の住持隆専と云もの、大広院の支子などにて当院を開きしを、後洞家に帰伏して扇叟に住職を譲りしか、されば其実は隆専を開山とし、扇叟を中興法流の祖とも云べきか、扇叟は永禄四年(1561年)三月十五日示寂せり、今相模国高座郡遠藤村宝泉寺の末山となれり、本尊宝冠の釈迦を安ず、又開基経重が寄進せし鐘を本堂にかく、款文に銘をしるす、

武蔵国河肥庄
新日吉山王宮
奉鋳推鐘一口長三尺五寸
大檀那平朝臣経重
大勧進阿闍梨円慶
文応元年(1260年)
大歳庚申
十一月廿二日
鋳師舟治久支
大江真重

或云この鐘は喜多院の鐘ならん、曹洞宗にては日吉に縁なし、乱世の際仙波より取来りて当寺へかゝげしならんと、又云この新日吉山王は、今の上戸村の山王社なるべしともいへど、別に此辺にこの社ありしやさだかならず、されど上戸村大広院と云修験者の先祖に、阿闍梨円慶と云名ありと云ときは、上戸村の山王なるにや、御打入の頃は扇叟より三世の住僧存舜が時なり、その頃賜はりし御朱印の文左にのす、

寄進 養寿院
武蔵国入間郡河越之内
拾石事
右今寄附訖、殊寺中可為不入者也、仍如件、
天正十九年(1591年)辛卯十一月日

存舜は深く東照宮の尊慮にかなひければ、御遊歴のたびごとにしばしば渡らせ給ひしとなり、或は当寺へ御止宿ありしこともあり、又境内のさかひも、御遊歴のとき持たせたまひし御杖のさきにて、限りを示したまひしかば、其所に葉おひたる切竹をたてゝ、標しけるなどゝかたり伝ヘり、其後境内の地杉原町の方へ出し所へ、城主より馬埓をつくらんとてその地を収め、代の地として高沢町の内にて、そこばくの所をあたへたり、これ寛永年中(1624年〜1645年頃)の事なりとぞ、かゝる御由緒あれば、松平伊豆守以来代々城主より住僧へ、書簡をあたふるを例となすとぞ、

禅堂

白山社

山王社

此社に三十六歌仙の額をかく、その額の書は本阿弥光悦の筆にて、画は土佐家の画きし所なり、今は別当寺のもとに収めおくと云、

妙見社

毘沙門弁天大黒社

塔頭 千寿院

稲荷山と号す、境内に稲荷社ある故にかく号すと云、

長徳院

今廃寺となる、

千慶院

同上

妙昌寺跡

東側にて多賀町薬師堂の後にあたれり、後野田村へうつる、