多賀町
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多賀町は南町の東側なる横町にて、夫より猶東行して江戸町の大路へ通ずる往還なり、もと桶を作る ことを業とせしもの、開きたる町なれば箍町と名づけしを、後に仮借して多賀町と書かへしとなり、故に昔より桶工の役銭を出すをもて、今に至るまで諸役を除かる、其地は東は江戸町に続き、西は南町にて、南は鍛冶町に隣れり、北は本町に接せり、
撞鐘櫓
西北の方常蓮寺の入口にあり、三重の櫓なり、此櫓の鐘にて十二時を報じて城下に便す、昔の鐘は破壊して永応年中(承応の間違えならば、1652年〜1655年)城主松平伊豆守信綱再造し、万治四年(1661年)田三段を附して永続の料とす、その後また破裂せしにより、行伝寺の鐘をかりてこゝに移せしと云、元禄八年(1695年)八月の銘文あり、この櫓の西隣に鐘撞屋敷とて、領主よりたて置所の邸あり、
常蓮寺
天台宗、仙波中院の門徒なり、瑞光山医王院と号す、開山を観智坊と云、年代詳ならず、昔は本町にありしが、元和年中(1615年〜1624年頃)此地に移れり、本尊薬師の立像長二尺(約60.61cm)、行基菩薩の作なり、
稲荷社
金毘羅社
褒善清七
大坂屋といへる商人なり、母に事へて孝なり、年老ゆくまゝに其朝夕の侍養幼穉のものゝ如くにして、少しくも母をして憚からざらしむ、色養の孝大方のものゝ及ぶ所にあらずとて、領主大和守これを聞、生涯一口の扶持米をあたへ、かつ清七にも種々のものを賜ひて、その孝養を賞す、時に天明二年(1782年)なり、