志義町

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志義町は昔鴫善吉と云し鍛冶の開きし所なり故に鴫町と号せり、今志義町とかくは仮借なり、此地元は馬場ありて城中の士の調馬せし所なりと云、東は上松江町に続き、西は妙養寺門前町に限り、南は松郷及び脇田村に隣り、北は鍛冶町及び多賀町の内同心町、東明寺村の飛地、及び南町の内行伝寺の新門前等に接す、東西へ通ぜし往還なり、

小名

御花畠

南側の裏にて、蓮馨寺の境内へそひし所なり、中古花薗のありしを、後武家の宅地となり、又変じて陸田となれり、故に此地名ありと云、

稲荷社

土俗に烏山親塚稲荷と号す、文正三年(1468年、ただし、文正は2年まで)四月十七日、別当正国院清須がえらびし縁起を閲るに、文正元年(1466年)太田資清入道道真川越城を築き、矢倉を作らんとして足代をかけ、自ら登りて四方をのぞみしが、茫々たる原野にして目にさゝゆる陰もなかりしに、たゞ一叢の森ありて、富嶽の望をさゝえたるをうらみ、人をして其森樹を剪取らしむ、これ当社の地域なり、然るに森の中に石の小祠ありて、内に小筒あり、首尾の口に丸き鐶あり、これ守護の神符などを納るゝものにやあらんと、携来りて道真に示す、道真これをとりて、首尾の金具を去りて見るに、筒は竹にて造りたるものにて、上をつゝみたる錦大抵朽はてゝ、金具の下にわつかのこれり、さて筒に題して願主河嶋武盛とあり、内に蔵めし書あり、其文に、

源家勝平怨敵退散、子孫長栄、大願成就守護、
承安三(1173年)癸巳天四月十七日
五社大明神 神主 神谷土佐守

阿波礼阿那於茂志呂、阿那多能志、阿佐憩剱憩住、
素盞嗚尊 祇園大明神
誉田別尊 八幡大神宮
倉稲魂尊 稲荷大明神
天児屋根尊 春日大明神
猿田彦尊 白髭大明神

宮川の清き流にいさみして、思ひしことの叶はぬはなし、大麻のはらひにあへば身のとがも、悪魔不浄も払ふ追風、千早振あめは木末の葉をわけて、あらぬは人の命なりけり、右の書を道真披見して、これ当城成就の吉兆なりと大に悦び、城普請の間は、城より坤(南西)の方へ仮の宮をかまへてこゝに勧請しつねは神酒を供して信心浅からず、営築事畢て後道真おもへり、この神全く富士山を見んとて森の木を伐し、ゆへに見出したるを以、五社の明神を拝す、且富士は三国に跨れる大山なり、当三国第一の利を得んこと必せりとて、弥崇信せしとなり、此説いぶかしきこともあれど、姑く社伝のまゝを記す、

末社 金毘羅社

別当 常学院

当山修験なり、社伝を尋るに当社勧請の始に、当所の城主太田道真が子僧正国院清須を別当職とす、当社の縁起は其頃清須が記し置る所と云、其後いつの頃よりか、社家を置て神事を司らしめしが、天和年中(1681年〜1684年頃)社家三宅主馬家産衰へて困窮大方ならず、茲に於て吉見領へ移り住せし故、神職は廃せり、其後再び別当の僧をおく、是今の常学院の祖なりと云、

瑞厳菴