堀口村(入間郡・山口領)
堀口村は河越城より南の方四里(約15.71km)を隔つ、江戸よりの行程は前村と同じ、柳瀬庄の内なり、家数五十余、東は川辺村に界ひ、南は大鐘村に隣り、西は勝楽寺村にて北は三ヶ島・北野の二村なり、東西十二町(約1.31km)許、南北三町(約327.27m)、水陸の田相半せり、検地は寛文十三年(1673年)岡上五郎兵衛たゝせり、地頭久松彦左衛門が先祖へ賜はりしは、天正十九年(1591年)五月三日なりと云、此村も新堀村に云へるが如く、正保(1644年〜1648年)の頃までは山口村に属して、別に一村の唱はなかりしと云、
高札場
村の中程にあり、
小名
根岸
とうやつ
殿ヶ谷
下に出せる殿屋布の跡なればこの名あり、
につおさ
さつこ入
三左衛門久保
小太郎坂
昔星見小太郎と云人住せし所なるゆへに、此唱へありと、
柳瀬川
西の方勝楽寺村より流れ来り、東方川辺村へ達す、
天神社
慶安二年(1649年)社領五石の御朱印を賜へり、神体は木にて束帯の状なり、例祭二月八月廿五日の二度に祭れり、村の鎮守なり、
別当 清照寺
社地より東の方二丁(約218.18m)許にあり、新義真言宗、中藤村真福寺末、星見山無量寿院天神坊と号す、当寺起立の来由を尋るに、昔鎌倉よりの落人星見小太郎と云者、是に来りて隠れ住けり、此人行基菩薩の作りし弥陀の像を所持せり、幾程なく剃髪染衣の身となり、庵室を此に結びて星見堂と称し、終焉の地となせり、僧賢誉村内安養寺と云蘭若の衰微せしを、こゝに引移して清照寺と改号すと云、この僧は明暦二年(1656年)五月十一日寂せり、本尊大日を安ぜり、
星見堂
是星見小太郎入道が結びし庵室にて、そのかみ守護仏とせし弥陀の像を安置せしが、後故有て失ひしかば、今は別に弥陀の像を造り安ず、
塚三ヶ所
地頭久松某及び其家族の葬地なりとて、殿塚と称せり、
稲荷社
清照寺の持、
殿屋敷蹟
小名殿ヶ谷にあり、昔地頭久松某が住せし所なり、慶長年間(1596年〜1615年)江戸へ移て後家作を廃し、瓦礫をよせて造りしと云塚のこれり、
安養寺蹟
此所の小名を寺前と云、地頭久松某が起立せし寺なりしに清照寺へ移せし後今の如く田圃と成れり