勝楽寺村(入間郡・山口領)

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勝楽寺村は河越城より坤(南西)の方五里(約19.64km)を隔てゝ、多磨郡の界にあり、江戸よりは行程十里(約39.27km)なり、里人は狭山の続にかゝりたる地なれば、狭山庄と唱ふと云へど、この庄名は外にきくことなければいかゞはあらん、家数百十七軒、東は大鐘・新堀の二村にて、西南はすべて多磨郡芋久保・中藤・三木及び岸・石畑等の村々なり、北は当郡大森・中野・矢寺等の地に犬牙し、其余堀ノ内・三ヶ島・堀口等の地も入合へり、東西二十八町(約3.05km)、南北十二三町(約1.31km〜1.42km)、総て此辺は新古の田入交れば、村里の界域も変遷ありて弁じがたし、天正二十年(1592年)の水帳には、地頭糟谷新三郎とあり、此采邑上り地となり、慶長十九年(1614年)五月今の地頭小林権平が先祖に賜はれり、水田少く陸田多し、村内に古の鎌倉街道と云往還あり、村の東三ヶ島村より入りて多磨郡中藤村へ達す、

高札場

小名

かりやど

地頭糟谷新三郎と云もの慶長十九年(1614年)五月までこゝに住せり、其後地頭小林権平も亦ここに住せしが、後江戸へ移れりと云、よりてかく呼びり

子くるみ

馬場

かな山

ふろの下

神戸

片ひぢ山

じんだくり

根小屋

城山

事は古跡の条に弁ぜり、

近衛殿屋敷

其来由あるべきなれど、詳かなることを伝へず、

北蓮寺

永源寺

勝般寺

長明谷

昔長明坊ありし処をいふ、

寺尾谷

天狗沢

新田坊

堂地入

外の坊

東坊下

向坊

北蓮寺以下の小名は昔し勝楽寺大伽藍なりし時塔頭諸堂等のありし遺名なりといへり、

柳瀬川

村の北より流れ来る、細流及村内の谷合より涌出する細流合て一条の川となれり、こゝよりして柳瀬川と号す、川幅は二間(約3.64m)許り、流末は堀口村へ達せり、

山王

七社

蔵王権現・聖女権現・八王子権現・大行事権現・手御子権現・副行事権現の七座を祀る、其内蔵王権現は弘法大師の作なりと云、慶安年中(1648年〜1652年)社領七石の御朱印を賜へり、例祭は九月十九日、

末社

稲荷社

三峰社

弁天社

薬師堂

是古へ東坊にありし薬師にて、腹籠の像は霊験あらたなる秘仏なりと、さればそのかみこの薬師堂免五反(約50アール)の地ありしに、後年山王領の内にこもれりと云、

阿弥陀堂

別当 勝楽寺

牛王の古版

辰爾山仏蔵院大坊と号す、新義真言宗、多磨郡中藤村真福寺の末、本尊十一面観音を安ず、相伝ふ当寺は殊に古き寺院にて、往昔百済より帰化せし儒生王仁が五代の孫、王辰爾が子、其父の菩提の為に開闢せし伽藍なりと云、又王辰爾此地にて終焉せしとも云、又其比のものなりとて牛王の古版一枚ありしが、是は回禄の災などにやゝりしや、いつの頃にか失ひてなし今僅に摺しもののみ近郷の農家などにまゝ残れるをもて、その図上の如し、又後三条院の御宇延久三年(1071年)中興開闢権大僧都尊海が時鋳し鐘ありしが、是も年歴て響止りしかば、明暦三年(1657年)丁酉九月鋳改しといへり、その銘左にのす、

武州高麗郡勝楽寺村、奉新建立鐘銘日、 諸方空相、寂滅異名、 常楽我常、箇々円成、 延久三年(1071年)辛亥九月十九日開闢、 本願 尊宥順説 初響 二見相覚妙性 御大工 椎名兵庫頭吉縄

奉日待講供養、奉念仏講供養、 奉誘奉加供養、願主藤原重信、 奉修山王七社大権現御宝前攸、 辰爾山別当仏蔵院勝楽寺大坊、 住寺中興開闢法印権大僧都、尊海上人 尊栄上人

かゝる古刹にして頗る大伽藍なりしかば、寺中も十二坊ありしに、それも文永の頃(1264年〜1275年)丙丁の災に逢ひ、諸堂はさらなり、諸記をも皆烏有となせしと云、しかりしよりことに衰廃し寺中も長くたえしかど、彼坊の名は今も田圃の小名に残れるをもて、古のさまを思しるべし、

熊野社

諏訪社

山王社

稲荷社

神明社

城跡

村の艮(北東)の方山上にあり、土人の伝に星見小太郎が住せし所なりと云、〔三ヶ嶋堀之内村百姓政右衛門が家の旧記に、豊後入道伏見小太郎勝楽寺村りうかいの城主たりしと云、伏見は則星見にや〕、又云さにはあらず、山口太郎と云人住りと、太郎は武蔵七党の支流にて、【東鑑】にも見えたる人なり、又星見がことは堀口村天神社の条下にも出せり、

塚 二ヶ所

一は旗塚と云、一は古塚とのみ呼、古塚の前に嘉暦元年(1326年)の古碑たてり、共に僅かなる塚なり、

旧家者庄兵衛

糟屋氏なり、そのかみ相州糟谷郷を領せし故に氏とすと、先祖を糟谷主計といひて、小田原北条に仕へしと云、かの役帳にみへし糟谷兵部少輔なといへる人の支族にや、天正十八年(1590年)小田原没落のとき、一族糟谷新三郎勝忠は早く御当家へ召出されしゆへ、其ゆかりにつきて彼が采邑なれば、主計も当村へ移りすむ、慶長十年(1605年)の夏新三郎より田畑七百文の地をあたへし状を蔵す、その文に、

かんにんふんとして、永源寺分田畑合七百文者、右出申候処、依如件、
慶長拾年(1605年)巳五月朔日 糟谷新三郎勝忠〔花押〕
主計殿 参

旧家者儀右衛門

二見氏なり、世系等は伝へざれど、村内勝楽寺の撞鐘延久三年(1071年)の銘に二見相覚妙性など云者みゆれば、二見氏の当所に古く住せしことしらる、又宗哲と云ものの出したる感状一通を蔵す、彼文中に年代は記さゞれども、小室筋などいふこと見えたれば、甲州などの士にや、感状は左にのせり、

先日小室筋御勤之時、走廻候由、有証人申旨神妙候、
仍太刀一腰遣之候、於向後彌可相稼者也、状如件、
十一月二日 宗哲1〔花押〕
二見将監殿

脚注

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