黒須村附新田(入間郡・未勘)

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黒須村は川越城より坤(南西)の方三里(約11.78km)にあり、江戸より行程十一里(約43.19km)余、桂庄に属し、こゝも八瀬里なり、【回国雑記】に黒須川を記したれば、文明(1469年〜1487年)の頃より此地名ありしこと知べし、東は入間川村の内鵜の木云所にそひ、南は扇町屋村に交り、西は小谷田村及び高麗郡仏子村にて、北は入間川の中央を界とし同郡根岸・篠井・広瀬の三村に隣れり、東西凡十一町(約1.20km)、南北十町(約1.09km)余、土地平夷にて陸田多く水田少し、旱損あり、民家百五軒、八王子より日光への街道あり、扇町屋村より入高麗郡根岸村に至る、道幅二三間(約3.64m〜5.45m)許、又江戸より秩父郡への道係れり、所沢村より当村をへて高麗郡中山村への馬次なり、正保(1644年〜1648年)の改には稲富十郎が采地なりしよし記せり、後寛文六年(1666年)検地ありと云、夫より子孫引続きて今稲富久兵衛が知る所なり、当村より巽(南東)の方十五町(約1.64km)許を隔て新田あり、こゝの検地は宝暦八年(1758年)伊奈半左衛門たゞせり、段別三十二町二畝九歩(約31.76ヘクタール)なり、人家もなく当村の持添にして御料所なり、

高札場

村の坤(南西)の方にあり、

小名

上小屋

下小屋

この辺昔陣小屋ありし跡なりと云、

大将軍

扇町屋南の方村の堺にあり、此所古へ戦争の頃大将の陣取し所なりと云のみにて其名を伝へず、按に元弘三年(1333年)新田義貞鎌倉攻のとき入間川に陣す、又文和二年(1353年)源基氏入間川に下向のこともあれば、是らの時のことにや、前の上下小屋云も、同時の名のこりなるべし、

入間川

村の北方にて村内の用水となせり、川幅二町(約218.18m)ばかり、この川の傍て水除の堤あり、【廻国雑記】にくろす川といへる川に、人の鵜つかひはへるを見て、岩かれにうつらふ水のくろす川、鵜のある影や名にながれけん、とあるは則この所のことなり、されど此川を黒須川とよびしこと外に見なし、土人の云道興准后この辺巡行し給ひし時、当所に至り川の名をとはれしに、土人間あやまりて地名と心得、黒須とこたへしかば、かくよみたままへなるべしと、此川に渡二ケ所あり、一は日光道のかゝる所にて、北よりにあり、一は秩父道にて西により、共に歩行渡しにして、冬に至れば仮橋を設て往来のたよりとす、

霞川

南の方より東流して入間川村に達す、川幅十間(約18.18m)許、此川に土橋三ヶ所あり、

春日社

当村の鎮守にして、例祭九月十九日、村内蓮華院持、

氷川社

天王社

白山社

愛宕社

稲荷社

以上四社も前同寺の持、

蓮華院

新義真言宗、高麗郡新堀村聖天院末、世音山妙智寺と号す、境内観音堂料として、十一石の御朱印を慶安(1648年〜1652年)中に賜はれり、開山は寂蓮と云、示寂の年歴詳ならず、中興開山覚常は万治元年(1658年)十一月朔日寂せり、本尊不動を安ず、本堂に撞鐘一口をかく、貞享二年(1685年)の鐘にて、銘文なし、

観音堂

黒須村蓮華院鰐口

本尊千手観音の立像にて、長三尺(約90.91cm)、定朝の作、相伝ふ此観音堂は養老年中(717年〜724年)の起立にて其頃の本尊は行基菩薩の作にて、堂も今より広かりしが、星霜をへて永禄十一年(1568年)祝融の災に罹りしより、今の如小堂となれりと、鰐口あり、其図右の如し、按に此鰐口の銘文によれば、比企郡千手堂村千手堂のものなるべければ、爰に持来りしゆえんは知らず、

弁天社

天神社

寺宝 心経一巻

この経は弘法大師の真筆にて、そのかみ尊氏将軍当寺本尊を信仰の余寄附せられし云、されど墨色等当時のものとはみえず、

観蔵寺

聖天院の門徒、泉光山と云、中興開山覚寺延宝三年(1675年)五月十二日寂せり、本尊薬師を安ず、秘仏なり、

大行寺

蓮華院門徒なり、覚王山と称す、本尊大日を安置す、

真観寺跡

村の東にあり、これも蓮華院の門徒なりしに、いつの頃か廃寺となりて、今は跡のみ残れり、