下奧富村(入間郡・未勘)
下奥富村も川越城より坤(南西)の方一里半(約5.89km)を隔つ江戸よりの行程上村に同じ、入間郷入間領と唱ふ、東西十三町(約1.42km)、南北十町(約1.09km)、東は藤倉村に隣り、南は三つ木・青柳の二村及び上奥富村に接し、西は入間川を限として、高麗郡柏原村同新田なり、この新田は郡中の地に属せり、北の方は増形村に接す、陸田多くして水田少し、用水は赤間川の水上奥富村より引来りて灌げども、常に足らざるを患ふ、家数二百二十六、当村宝永(1704年〜1711年)以前領主の遷替、及び検地の年代等は凡て前村に同じ、延享三年(1746年)に至りて田安殿の領地となれり、其後も検地ありしは安永六年(1777年)なり、村内に八王子より川越への往還かゝれり、上村より入て藤倉村へ達す、
高札場
村の西南の間にあり、
小名
龍井
民家十四軒集り住せり、【北条役帳】に三田弾正少弼が領地川越すぢ亀井郷とのせたるは、すなはち此ところなるべし、
大鷲
四十九軒許の民家ありて、一村落をなせり、
小袋
吹上
入間川
村の西を延亘す、上奥富村より入て、柏原新田へたつせり、川幅五十間(約90.91m)、
白髭社
小名大鷲亀井辺の産神なり、広福寺の持なり、
三島社
同寺の持なり、
伊勢宮
東林寺の持なり、
広福寺
天台宗、仙波中院末、薬王山地蔵院と号す、開山尊栄永禄十一年(1568年)当寺を草創して、天正十二年(1584年)七月十一日寂せり、其後元和九年(1623年)十一月七日大猷院殿川越御放鷹の時、当寺へ渡らせ給ひしより以来、此辺御遊歴の時は渡御ありしを、定例とし給ひしゆへ、寛永元年(1624年)十一月十五日、同二年(1625年)二月十一日、同三年(1626年)二月八日、同四年(1627年)二月十三日、同七年(1630年)二月十五日の六度までに及びしとなり、其比の御休足の間を賜はるにより、客殿に用ゆべき旨命を蒙るの由、領主松平伊豆守信綱より伝へしかば、則此を客殿に用ひしかど、後回禄に逢て烏有となりし云、本尊は薬師を安ず、
楼門
楼上に安永三年(1774年)九月鋳成の鐘をかけり、
梅樹
門を入れて右にあり、昔大猷院殿御遊歴の時、折しも此花盛なりしかば、其花色を賞翫ありしにより、今に御詞の梅と称して敬長し、埒をゆひ廻らして人をして近くことを得ざらしむ、此梅いと老て枯尽し、今は櫱より枝葉生出たり、
天神稲荷合社
観音寺
広福寺の門徒なり、起立の由来詳ならず、元文年中(1736年〜1741年)再興せしと伝ふのみ、本尊正観音を安、
明星院
三光山と号す、是も同寺の末なり、開闢の事蹟を伝へ ず、正徳年中(1711年〜1716年)再興せしと云ふ、本尊は虚空蔵を安ず、
東林寺
金峰山と号す、本山修験高麗郡篠井村観音堂の配下なり、本尊不動を安ず、当寺古は相州立川と云所にありしと、或は云立川は相州にあらず、当国多磨郡柴崎の立川なりと、何れが実なることを知らず、天文元年(1532年)壬辰等善院仲順其子等覚院良海を率ひて、立川より当所へ移れり、故に今仲順を以て開山とす云、
薬師堂
広福寺の持、