関間新田(入間郡・未勘)
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関間新田も享保十年(1725年)荻原源八郎承りて三郎兵衛と云る者開発せり、此人関間氏なれば此唱をなせしものなり、村内に川越より坂戸町への街道係れり、こゝも皆陸田の地なり、民戸二十余、東は大塚新田に隣り、南も大塚新田及び藤金新田に接し、西は郡境にて高麗郡臑折村に交り、北は片柳新田に依り、東西四町(約436.36m)許、南北四町半(約490.91m)に余れり、明和九年(1772年)久保田十左衛門検地せり、爰も開発の初より御料所なり、
高札場
村の南方によりてあり、
小名
塚の越
元屋敷
中組
鶴ヶ岡
池の台
富士浅間神明天合祀社
村の鎮守にて福泉寺の持、
稲荷社
村民の持、
福泉寺
曹洞宗、江戸浅草永見寺の末、自保山と号す、本尊弥陀を安ぜり、当村開発の時本山永見寺の世代の内に寄隠居せし即万と云僧を招待して、この一寺を成せり、即万は寛保二年(1742年)に寂すと云、