粟生田村(入間郡・未勘)
粟生田村は河越城より乾(北西)の方なり、行程前村に同じ、按に郡内今市村法恩寺年譜康応元年(1389年)の条に、粟生田彦太郎直村と云人見ゆ、其外粟生田郷と載たる文書あり、其文に、
禁制 武州入西郡粟生田郷内、越生報恩寺領事、
右軍勢甲乙人等、不可致濫妨狼藉、若有違犯之輩者
可被処罪科、由状如件、
長享三年(1489年)四月日 沙弥在判
是に拠は古くより其名の聞へしこと知るべし、此村勝呂郷浅羽庄に属し、東は坂戸村に隣り、南は下浅羽村に接し、坤の方は上浅羽村にて、西は高麗川を隔てゝ中里村に交り、北は上吉田村に依り、東西四町半(約490.91m)、南北八町(約872.73m)許用水は下浅羽村より高麗川を分水して引来れど、水田は少く陸田の方多し、村民農業の暇には臥座をおり、市に鬻て少しく生産の資をなせり、検地は元禄十四年(1701年)松平美濃守糺せし由を伝るのみにて、この前後のことは詳ならず、正保年中(1644年〜1648年)石野伝八・高林河内守の二人知行せしことは、其頃のものに見えたり、是は何の頃外へ移されしにや、元禄年中(1688年〜1704年)は松平美濃守領分となり、夫も替りて松平大和守領分となりしより今もしかり、
高札場
村の未(南南西)の方にあり、
小名
山王
爰は昔山王社のありし所なり、今上浅羽村土屋神社に、武州入西郡粟生田上村七所宮常住鰐口永正十年(1513年)酉十月十五日と彫たる鰐口を掛たり、則当社のものにて、何の頃か彼地へ持行しものならん、さればこの辺を永正の頃は上村と唱へしこと知べし、
大山屋敷
南方にあリ、屋敷など云名の残りたるは、故あることなるべし、大山氏の居跡ならんか、外に拠なければ考べからず、
地蔵寺
未(南南西)の方にあり隣村上浅羽の東方に地蔵寺跡と云るあり、こゝに続け知る地なれば、かく呼名せるにや、
白金
出戸天神
中河原
宮田
荻野
高麗川
村の西境を流る、南方下浅羽村より入、上吉田村にそゝぐ、砂利川にて河原を合すれば幅は凡五十間(約90.91m)、
稲荷社
当所の鎮守なり、
天神社
以上二社とも青蓮寺の持、
青蓮寺
新義真言宗、今市村法恩寺の末、福護山と号す、本尊大日を安ず、開山詳ならず、境内に法印栄意天和二年(1682年)と云碑あれば、是より前の開山なるべけれども、名も伝へず、
観音堂
正観音を安ず、