上浅羽村(入間郡・未勘)
上浅羽村は川越城の西方、行程等ほゞ前村に同じ、爰は浅羽郷の本郷なればとて、里人或は浅羽本郷とも唱へり、勝呂庄に属す、按に【和名鈔】入間郡麻羽といへる郷を載す、又当国七党系図に有道遠峰が孫、弘行が入西三太夫資行と云、其子を浅羽小太夫行業といへり、この入西は入間郡の西の方にて、則この辺をいへば行業この所に居て、初て浅羽を名乗しなるべし、是等の人の年代は定かならざれど、古き世のことなり、【東鑑】にも浅羽氏の人あまた出、多くは武州の人と見えたり、【太平記】にも児玉党に浅羽氏の人を載たり、後世子孫連綿たりと見ゆ、当時土人の多く居住せしこと知らる、又此地に係りたる古歌を引て左に載す、
【万葉集】作者不知
紅之浅葉の野良再刈草の、束之間毛吾忘渚栄、
【同書】柿本人麻呂の歌に
浅葉野立神古菅根、惻隠誰故吾不恋、
【続後撰集】家隆の歌
くれなゐの浅葉の野らの露の上に、我しく袖そ人なかめそ、
【同書】為藤の歌
夕くれは浅葉の野らの露ながら、こすけ乱れて秋風ぞふく、
【続後拾遺集】に常盤井入道の歌
くれなるのあさ葉の野らにおく露の、色に出てもほさぬ袖哉、
【新拾遺集】後久我太政大臣の歌
春雨もふりはりゆく浅葉野に、たつみは小すけ色ぞつれなし、
【同書】式子内親王の歌
わか袖はかりにもひめやくれなるの、浅羽の野らにかゝる夕露、
【歌枕】【名寄】家隆の歌
霜かゝる人の心の浅羽野に、たつみは小すけねさへくちめや、
【同書】俊頼の歌に
君をこそ浅羽の原にはきつつむ、しつのいしみのしみ深くおもへ、
【同書】為家の歌二首
浅羽野の露のしら菅うちはへて、かくれて長き音にそ鳴ぬる、
浅羽野にたつみは小菅しきたへて、枕にしても一夜あかしつ、
【同書】家長の歌
くれなるの浅羽の野らの草も木も、またそめはてぬ初しくれ哉、
【同書】経道の歌に
立鳥のたつみは小菅木かくれぬ、雪はあさはの野辺の御狩場、
これ等旧き地名を和歌にも読るをもて拠とはなれり、其内に浅葉野及び浅葉原の名を載たれど、何れの処を指しや詳ならず、信濃国にも浅羽野といへる名所ありといへり、按に郡中森戸・駒寺・関間・片柳・藤金・大塚・高倉等昔はすべて原野にて、享保年中(1716年〜1736年)新墾なりと伝れば、是等皆浅葉野の名残りしや、是も詳ならず、又今の如く上下浅羽・北浅羽の三村となりし所以は、郡内今市村法恩寺年譜康永三年(1344年)十二月の条に、北浅羽の名を載たれば、こは旧きよりの名にて、今も当村より一里(約3.93km)余を隔てゝ北浅羽あり、当村及び下浅羽を合して、古は南浅羽村と唱へし由土人は伝れど、此名は旧き書にも未だ見えず、今の如く上浅羽・下浅羽と唱への分れしは近きことにて、正保(1644年〜1648年)のものに北浅羽・浅羽の二村を載たるは、未だ分れざる前のことにして、元禄(1688年〜1704年)の改めにはや上下の両村となせしより、今は上下北浅羽の三村とはなれり、村の四境東は粟生田・坂戸の二村、南は下浅羽村及び高麗郡下新田にて、西は厚川・大在家の二村に境ひ、北は高麗川を隔てゝ大塚村に交れり、東西十七八町(約1.85km〜1.96km)、南北十五町(約1.64km)、民戸八十、用水は萱方村より出る清水及び高麗川の分水を引来れども動もすれば旱損あり、陸田は多く水田は少し、土人の説に昔は浅羽左近将監と云るが、此地を領せしと伝ふれど正しく左近将監の名は聞所なし、若くは前に載たる【東鑑】【太平記】等の諸書に見えし中の人ならんか、定かなるを知らず、村の中程の丘上に応長二年(1312年)壬子三月十五日敬白とし、脇に大旦那安部友吉井長田守行と彫たる古碑一基あり、安部長田なんと云るは何人なりや詳ならず、且地名をも彫ざれば、元より此に有しものなりや、後世持来て建しやそれさへ詳ならざれど、旧き碑なれば、姑く記して後考の便りとせり、御入国の後は高林河内守・石野伝八郎・大久保新八・朝比奈市平等が知行と、御代官所と交りしことは、正保年間(1644年〜1648年)の記録に残れり、夫より又若干の星霜を経、元禄年中(1688年〜1704年)は松平美濃守に賜ひ、其頃同人の検地せしことあり、夫もいく程なく上りて御料所となり、又宝永年中(1704年〜1711年)は島田十兵衛に賜はりしより今も替らず子孫玄蕃に至れり、当村の西、厚川・大在家の二村を隔てゝ、今萱方村新田に浅羽城跡のあることは、其村に係て弁せり、
高札場
村の中程にあり、
小名
上宿
宿並
按に村内に下浅羽村より入、高麗郡下新田へ通ずる一条の往来あり、鎌倉の古街道なりと伝れど、其さま慥ならず、されど此唱あるを見れば、とにかく此辺に宿駅ありしこと知べし、
上経塚
下経塚
共に今塚はなし、
姫宮
在家
幡戸
高麗川
村の北にあり、厚川村より入、下浅羽村に沃げり、砂利川なれば河原を合せて幅三間(約5.45m)許り、
土屋権現社
高さ一丈五尺(約4.55m)許、四方七八間(約12.73m〜14.55m)の塚の南面を深さ八尺(約2.42m)程、高さ七尺(約2.12m)程、洞の如くに穿ち、三方は石を塁で垣とし、屋の裏には長さ一丈(約3.03m)許、文字をも失へる古碑を東西に渡し茅を以て覆屋を設く、内に丈二尺七八寸(約81.81cm〜84.84cm)なる恵美須の如き坐像のさまを、石にて作れるものを神体として置こは何等の神にて何の頃鎮座せしや、土屋の神号も詳ならず、されど此塚上に浅間の小祠を置、傍に凡六囲の老杉一樹あり、塚のさまは疑ふべきもなき古墳なれば、昔こゝを領せし浅羽氏の墳にて彼神体は時の領主を石像とせしにや、又土屋某なんと云る人領せしこと有りて、其人の石像を安じ、土屋の神号を加へしや或は土を穿てかゝる屋を設けたれば、それらの名によるにや、すべて土人の伝へを失ひたれば、今よりはそれと定むべからず、村内大蔵院の持なり、
神明社二字
一は長久寺持、一は村民の持なり、
稲荷社四字
一は長久寺持、余の三字共に村民の持なり、
長久寺
新義真言宗、石井村大智寺の末、八葉山来迎院と号す、開山の年歴詳ならず、中興開山争舎は貞享元年(1684年)十月四日寂せり、境内の墓所に貞治四年(1365年)乙巳正月廿五日妙好禅尼、応安五年(1372年)壬子三月一日と彫たる古碑二基あり、本尊大日を安、
観音堂
鐘楼
宝永二年(1705年)の鐘をかく、
大蔵院
清神山と号す、本山派、西戸山本坊配下、開山明光延文三年(1358年)八月三日寂せり、本尊不動を安ず、土屋神社は当院の持にて、其社の物なりとて永正年中(1504年〜1521年)の鰐口を持伝ふれど、其彫たる文を以て考れば、当村の物に非ることは論なく且七所宮と彫たれば、土屋神社のものに非ること明し、さはあれ彼粟生田村に小名山王と云あり、昔山王の社ありしといへば、其所に掛しものにや、其鰐口の形をうつして左にいだしせり、

阿弥陀堂
弥陀は画像にて、恵心僧正の筆なりといへり、
観音堂
観音は如意輪にて、坐像一尺二寸(約36.36cm)許、行基の作なるよし、
大源寺跡
南にあり、
地蔵寺跡
東方にあり、二所共に寺跡なりと土人はいへど、廃寺となりし由来は伝へず、