下浅羽村附新田(入間郡・未勘)
下浅羽村は郷庄等上村に同じ、川越城の西に当り、そこよりは纔に二里半(約9.82km)に及べり、こゝは慶長十三年(1608年)村民利右衛門と云るが開きし由、其頃は今の上浅羽に属したりといへば、両村を合して唯浅羽村とのみ唱へしことにて、正保年中(1644年〜1648年)までしか唱へ、今の如く上下に分れしは、元禄十四年(1701年)時の領主松平美濃守検地せしことあれば、其頃のことなるべしと土人の口碑に残れり慶長(1596年〜1615年)の頃開きしと云は疑ふべし、猶上浅羽村・北浅羽村等の村をも并せ見るべし、村の四境東は関間新田に隣り、南は高麗郡下新田に境ひ、西は高麗川を隔てゝ対岸は郡内大塚村に交り、北は上浅羽・粟生田・坂戸の三村なり、東より西へは纔に六町(約654.55m)、南北へ十町(約1.09km)許、民戸二十余、陸田多く水田は少し、用水は高麗川を引来れども、水旱共に患をなせり、此地元禄中松平美濃守が領分となりし後、改めて深津某に賜ひしより、今も彼深津氏の子孫弥八郎の知る処なり、此外に原野ありしを享保年中(1716年〜1736年)御代官川崎平右衛門開きし後、明和九年(1772年)久保田十左衛門検地して、貢税の敷を定めしより本村持添の地となり、夫より引続き今は御料所にて御代官支配す、
高札場
村の南にあり、
小名
幡戸
はせを
てんさん田
姫宮
小松
塚田
高麗川
上浅羽村より入り、西の辺を流れて粟生田村に沃げり、河原を合て幅は五六十間(約90.91m〜109.09m)、
旗塚
塚の高さ一丈(約3.03m)許、広さ二畝二十歩(約264.46㎡)余はすべて除地なり、塚の来由は詳ならず、名義は幡戸明神の条に弁せり、
幡戸明神社
当村及上浅羽村の鎮守なり、相伝ふ昔萱方村浅羽某の城責ありし時、寄手当所の塚上に旗を建しが後に其旗を神体として祀りし故、幡戸明神と号すと云伝ふるのみにて、其事実及年代すべて考ふべからず、上浅羽村長久寺の持、
天神社
同寺の持、
薬師寺
花陰山と号す、真言宗新義、石井村大智寺の末、本尊薬師の腹籠に、浅羽左近将監某が守り本尊とて、花陰薬師と云る小像を納めたれど、秘仏なればとて見ることを許さず、花陰と云来由は詳ならず、されど当村元禄十四年(1701年)の水帳に、堂地四段七畝九歩(約4,690.91㎡)堂守常図と記したれば、この頃までは僅か薬師堂にて、いさゝかの堂なりしと見ゆれば、此後一寺となりしものならんか、