萱方村附新田(入間郡・未勘)
萱方村は川越城より乾(北西)の方にて、浅羽郷高麗領に属せり、東は厚川村に隣り、南は森戸村に接し、北は高麗川を隔て欠の上・大塚の二村に界ふ、東西七町(約763.64m)余、南北五町(約545.45m)余、民戸二十八、陸田少く水田多し、用水は森戸村の残水及び高麗川の水を引り、高麗郡平沢村の旧家に伝ふる永禄十一年(1568年)小田原北条氏の文書によるに其頃小窪六右衛門と云もの、当村にて十貫文の地を賜はりしなり、其後又慶長年中(1596年〜1615年)は伊丹播磨守康勝が采地にて此頃伊丹氏は八千石を領し、高麗郡高麗本郷に陣屋ありし由、寛永三年(1626年)上りて朝比奈三之丞に賜はり、其後万治年中(1658年〜1661年)高林弥一郎に替賜りしが、元禄年中(1688年〜1704年)松平美濃守に賜ふ、是も後上りて御料所となり、宝暦十二年(1762年)清水殿領地となれり、夫も又寛政七年(1795年)上りて御料所に入しより、引続き今も御料所なり、又当村の東厚川・大在家の二村を隔て、上浅羽村の西に当り、段別七町(約6.94ha)許の処あり、中古浅羽村の民願あけ新墾として羽浅(浅羽?)村に属し、宝暦九年(1759年)御代官青山市左衛門検地せり、いつの頃か其地を当村の民譲り受しより、本村持添の地となれり、
高札場
村の南にあり、
小名
坊主ヶ谷戸
中河原
上萱
下萱城前
上殿向
下萱
城ノ後
高麗川
森戸村より入、村の北方を経て厚川村に通ぜり、川幅五十間(約90.91m)許、往古は大塚・欠の上二村と当村の境を通ぜしに、洪水のおりおり流の瀬変て、今は全く当村のみに係れり、
神明社
当所の鎮守なり、村持、
城跡
今萱方新田と云、浅羽下総守が住せし城にて、北条氏没落の時天正十八年(1590年)廃城となり、下総守は小田原の城へ籠り、其子左近〔案に今市村の農民半七が先祖は、浅羽下総守が子右近と云ものなり、忍城にて戦死の後、子孫相州へ移りしと云々、されば左近と右近は兄弟なりしか〕、小田原没落の時当所へ落来り、後野州免鳥の城へ落行しが、やがてそこも立去て江戸へ趣しなど伝へり、按に浅羽氏は武蔵七党系図児玉党に、浅羽小太夫行業其子三郎行親、其子三郎行光等あり、【東鑑】にも其名見ゆ、又【太平記】文和元年(1352年)武蔵野合戦の条に児玉党には浅羽四方田庄櫻井と云々、又関東古戦録に入間郡の住人浅羽甚内成友兄弟、天正十二年(1584年)北条方に加り、金山館林の城を責し時、成友案内者とし陸奥守氏照・厩橋道軒・松山外記等千三百五十余騎と共に、金山城熊野口を責て大に功ありと云々、此甚内兄弟は下総守が一族なるにや、浅羽氏の名は旧くより沙汰ありて、世々其家の居城たりしことも知べし今城跡と云る所は、纔に芝地と成て残れるのみにて、其他は開して田畑となれり、其内に弁天社あり、往古城ありし時は、構の内の鎮守なりしよしいへり、本村の持なり、