森戸村(入間郡・未勘)
森戸村は川越城より西方にて浅羽郷松山領と唱ふ、村内は纔の宿駅にて二条の街道を開けり、一は東西へ貫く道にて、郡中入西領の村々より、高麗郡へ通ぜり、一は南より北へわたり、越生郷の村々より川越及び江戸への往来なり、されどこゝの二条正しき街道に非れば公事につきて往来する者にはこゝにて馬次の役をなし、その他の旅人はあづからず、往古は今の小名本屋敷の辺街道宿駅ありしが、いつの頃かこゝへ引移したりといへど其年歴は伝へず、村の四境東は萱方・厚川の二村、南は高麗郡中新田・上新田・町屋の三村に隣り、西は郡内四日市場村にて、北は市場・下川原の二村にとなり、東西十五六町(約1.64km〜1.75km)、南北も同じ程なり、民戸百二十軒、半は宿内にありて其余は所々に散在せり、田畠の多少も大抵半す、用水は下川原村より高麗川を引入て水田の養となせり、されど南の方は水道の便よからねばとて、別に同じ流を四日市場村より分水して、田間に沃げり、【北条役帳】に三十貫文河越森戸久米玄蕃と見えたれば、この頃より前に起りし村なることしるべし、御入国後は藤掛六郎右衛門・朝比奈三之丞の知る処に賜り、夫より引続き正保(1644年〜1648年)の頃までも同じく二人の知行なりき、元禄年中(1688年〜1704年)松平美濃守の領分となり、同十六年(1703年)に同人検地せしことあり、夫もいく程なくして収公せられ、宝永四年(1707年)村内を裂き、深津孫右衛門に賜り、其余は御料となりて御代官支配せしに、其処は宝暦十二年(1762年)清水殿領知に賜りしが、寛政年中(1789年〜1801年)又上り地となり、今は御料所の外深津弥八郎知行所也、
高札場
村の中程にあり、
小名
鍛治屋
市場
宿かしら
本屋敷
二階
柳原
馬場原
田利
丸山
高麗川
四日市場村より入、北方を流れて萱方村に沃げり、
熊野社
当村の鎮守なり、慶安二年(1649年)社領十石の御朱印を賜り、鎮守府将軍秀衡の勧請なりと伝るのみにて、証すべき記録もなければ信ずるに足らず、鳥居の前に一条の往来あり、往古は此街道を隔てゝ西に鳥居ありし由、今もそこを字して鳥居と云、往来北の方市場村より入、高麗川を渡て社の前に至れり、当村と四日市場村の間を過て、高麗郡中新田に貫けり、鎌倉古街道なりといへり、
末社
疱瘡神社
三島社
石尊社
秋葉社
観音堂
別当 大徳院
三宮山と号す、本山修験山本坊配下、本尊不動を安ず、開山権律師月証と云、寂年は伝へず、されど本社の傍に観応二年(1351年)辛卯三月三日、右志者大檀那当住権律師月証逆修願予普及法界自陀同証無上菩提沙弥道妙妙弥尼妙安敬白と彫たる碑を建つ、この月証当院の草創ならんには開山の年歴も推考すべし、
八幡社
大徳院の持、
熊野社
村民庄兵衛の持、本地は鏡の中央へ仏像を打付、上に梵字をえり、奉造立観応元年(1350年)癸丑九年吉祥日、佐藤庄兵衛と彫たり、按に観応元年(1350年)は庚寅にて、支干も合ざればことに信ずべからず、且佐藤庄兵衛と彫たるも疑ふべし、もしさあらんには旧家なるべけれど、今の農民佐藤庄兵衛なるものゝ旧家なることをきかず、かたがた古仏を新鏡へ打付、年号姓氏等は後より彫しこと疑ふべからず、
鶴明神社
大徳院の持、
神明社
稲荷社
第六天社
以上三社共に村持、
西光院
曹洞宗、越生龍穏寺の末、大林山と号す、開山は龍穏寺二十二世大覚仏海禅師、寛文四年(1664年)七月廿八日示寂、開基界安是法居士慶長八年(1603年)十一月十五日死せりと伝へて、俗姓はしらず、慶長八年(1603年)より寛文四年(1664年)に至りては、其間六十年を距てたり、共に力を戮せて一寺を草創せし開山開基の卒寂六十年を距てたるは疑ふべけれど、姑く聞まゝを記せり、按に隣村市場に小名大林坊といへる処あり、昔彼処にありしをこの地へ移して一寺となし、大林の二字をとりて山号となせしにや、されど外に正しき拠はなし、本尊正観音を安ず、
稲荷社
穏寮
三尊の弥陀を安ず、