前久保村(入間郡・未勘)
前久保村は本郷の東に当れり、家数四十、宝永六年(1709年)六月本目讃岐守に賜はり、今子孫帯刀知行す、村内すべて平地にて、江戸より越生辺への往来かゝれり、
高札場
村の中程にあり、
小名
おいのくぼ
牛ころし
みその
此小名前村と同きものは、後に分村せし故なるべし、
八幡社
社地を臥龍山と号す、此所を遠望すれば、山の形状恰も臥龍の如き故なりと云、寛永年中(1624年〜1644年)造営のことにつき公へ上りし案に云、入西之郡毛呂郷石清水八幡之宮は、建久年中(1190年〜1199年)源頼朝社を修造あり、又大永八年(1528年)九月毛呂三河守顕繁再建あり、其後天正二年(1574年)三月北条氏政の再び修造あり、かゝる古社の由来もあれば、尚又この頃願ひ上しと云々、これによりて時の御代官市川孫右衛門・彦坂平九郎へ命ぜられ、材木若干を賜はるの旨、大河内金兵衛・伊奈半十郎達せしと云伝ふ、本社七尺五寸(約2.27m)四方、棟上に葵の御紋を彫る、例祭八月十五日、社傍の馬場に於て流鏑馬を興行す、
飛来明神社
八幡宮と並たてり、或は毛呂明神とも唱へり、社領十石の御朱印を賜はる、よりて考るにこの明神社地主神なるべし、寛永年中(1624年〜1644年)大河内金兵衛・伊奈半十郎、連署の材木御寄附の状にも、毛呂の神主望申に付而、八幡宮造営の為と云々、この飛来と号することは社伝に、古季綱親王当国下向の時、氏の神其迹を慕ひて飛来りしにより飛来と号すと、もとより取に足ざる説なり、季綱は則毛呂太郎季綱が事にて、親王と称すべきいはれなし、天正年中(1573年〜1592年)小田原北条氏より寄附の証文、今社人のもとに伝ふ、其文に茂呂大明神とのす、これによればそのかみ、毛呂氏代々の氏神なることは論なし、又堂山村最勝寺所蔵大般若経の奥書に、延徳四年(1492年)六月廿八日、於臥龍山蓬莱神書継之とあり、飛来恐くは此蓬莱を誤り伝へしにや、是も棟に御紋を彫り、前に拝殿を設く、例祭年々九月廿九日、流鏑馬を興行なせり、
石鳥居
神楽殿
祈祷所
末社
太神宮
神明社
春日社
松尾社
熊野社
稲荷社二
雷電社
季光社
毛呂太郎季綱の父、豊後守季光の霊を祀るといふ、
観音堂
神主 紫藤蔵人
吉田家の配下なり、家系は伝へざれど、【小田原役帳】を閲るに紫藤新六が知行十八貫七百六十三文、入西郡大類卯検地六貫三百四十五文、同大類卅貫文、御蔵出以上五十五貫八文とあり、蔵人も此地の旧家なれば、新六が一族の末流などにや、【役帳】に云る大類も、此地より纔かへだゝりし村名也、
社宝
大般若経残缺
小田原北条氏文書 一通
依天下之御弓箭達、当社之鐘御借用に候、速可有進上候、御世上御静謐之上、被鋳立可有御寄進間、爲先此御証文、其時節可被遂披露旨、被仰出者也、仍如件、
(朱印)
天正十六年(1588年)戊子正月五日
茂呂大明神
等覚院
観空山と号す、天台宗、仙波中院末、古は普門寺と号せしが、いつの比よりか寺号は廃せしといふ、開山僧円秀慶安元年(1648年)十月朔日寂せり、本尊薬師を安ず、
泉乗寺
木性山と号す、新義真言宗、上野村医王寺末、村民勇助が祖先新井内蔵助宅地を捨寺とし、僧法泉を開山とす、法泉は文禄三年(1594年)化す、本尊は地蔵の立像なり、因に云開基内蔵助が先代新井雅楽顕栄といひしは、故あつて忍城主成田がもとに拘留せられしが、後に解て当所へ土着し、永禄元年(1558年)二月十八日没せしと云、されば故あるものなるべし、
兵恩寺
秋徳山と号す、天台宗修験、霊厳嶋普門院末寺なり、本尊大日坐像、開山僧良海元禄十五年(1702年)七月廿六日化す、
長源寺
専光山と号す、同宗同末、本尊大日像を安ぜり、開実詳ならず、