玉林寺村(入間郡・未勘)

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玉林寺村は正保(1644年〜1648年)の国図及び郷帳には載せず、元禄十五年(1702年)改定の国図に始て見ゆれば、後年開けし地の如くなれど、【小田原役帳】に太田大膳亮勝の内、玉林寺分拾九貫文の地を領せし由みえたり、此勝の内とあるは勝呂郷の内と云義なるべし、然れば玉林寺分は則当村のことにして、昔は勝呂郷に属せしこと知らる、今土人の伝へによれば、勝呂郡を唱る村は、皆こゝより若干の地を隔てたれど、或は其間なる村も皆、そのかみ勝呂の唱ありしも又知べからず、かく古より開けし地なるは勿論なれど、其地の広からずして、一村落とするに足ざるをもて、昔より川角村に隷して、村民の戸数も本村の内に籠りしと云、又村内に苦林野の古戦場の塚と云ものあるときは、古は苦林野の内なりしこと知らる、其地は本村の東に当りて、大類村を中間に隔てゝあり、当村永禄年中(1558年〜1570年)は、太田大膳亮が所領なりしこと前にいへるが如し、其後のことはすべて伝へず、元禄十七年(1704年)本村と同く、木下伊賀守に賜ひしより、今も其子孫求馬が知る所なり、

小名

塚原

村の北にあり、此辺古戦の地にして、古墳多く残れるをもて塚原と呼り、其委しきことは下文古戦場の条に記せり、

稲荷社

村の鎮守なり、百姓持、

光正寺

新義真言宗、上野村医王寺の末、本尊正観音を安ず、

苦林野古戦場

苦林野図

村の北の方苦林村の接地なり、此辺古墳多きをもて、土人塚原と称す、中央に長塚と云あり、広三十歩(約99.17㎡)許、高一丈(約3.03m)余、【太平記】に載る所、貞治年中(1362年〜1368年)の古戦場なり、彼記に、芳賀伊賀守等苦林野に著き、小塚の上に打上ると見えたるは、この長塚のことなるにや【太平記】基氏芳賀合戦の章の略に云、貞治(1362年〜1368年)の頃将軍兄弟中悪くなりし時、鎌倉の左馬頭基氏幼少より介抱のしたしみを思ひ、上杉民部太夫が一旦高倉禅門に与せし罪を免し、芳賀兵衛入道禅可が越後の守護職を奪ひて、上杉を守護とせしを、芳賀怨みて宇都宮にありし折から、結句上杉を取立て鎌倉の執事と成しける故、禅可憤りに堪へず、上杉鎌倉へ越る道にて戦はんと、上杉板鼻に陣取て待ける処に、上杉未来らざるに、基氏はやく宇都宮へ寄ると聞て、其身は宇都宮に居り、嫡子伊賀守高貞・次男駿河守某に八百騎を添て、武蔵国へ差遣す、此勢坂東路八十里(約314.18km)を一夜に打て、貞治四年(1365年)六月十七日の辰の刻(午前7時〜午前9時頃)に、苦林野に著き、小塚の上に打上る、基氏は先に此所に陣取、軍兵雲霞の如く列れり、芳賀伊賀守舎弟、駿河守兄弟先を争ひ相進て、敵味方互に鬨を作り入乱て戦ひ、南北に分て其跡を顧れば、原野血に染み、人馬汗を流して、堀かねの池も血となり、両陣所をかへて其兵を見るに、討るゝもの百余人、宗徒のものには芳賀駿河守鎌倉殿に切て落さる、鎌倉方にても七十余人打たるのみならず、木戸兵庫助敵と組て討れぬ、芳賀は弟を討れて涙を流し、基氏は木戸を討せて眼に血をこそぎ、再び入乱れて戦ふ、左馬頭手痛く働き、乗馬も三太刀まで切れて危ふかりしとき、大高左馬助重成、己が馬をさゝげてたすけゝるにより、又暫く戦ひ、両陣もとの所に移りかはりて休ふ、是に於て芳賀が幼子八郎生捕れければ、高貞涙を浮て今一軍せんと云処に、岡本信濃守富高、敵の大将は白糸の鎧を着て下り立し若武者と見知ぬ、毛を験に組打にせんとて向けたる、岩松治部太夫慮あるものなれば、早く左馬頭の鎧と己が紺糸の鎧と着かへ、大事に替らんとしせしを、岡本新左衛門尉岩松が前に馳ふさがり、信濃守と組てさし違へり、かくて芳賀が八百余騎の兵、昨日は二日路を一夜に打しかば、馬皆疲れぬ、今日は又入替る勢も無て、終日に戦ひ暮しければ、是までと打残されたる兵三百余騎を助けて、宇都宮へ引取けると云々、近き頃此時戦死のものゝ菩提のため、且は比企郡岩殿観音遥拝の為に、村民の建し石碑かの長塚の上にあり、正面に千手観音の像を刻し、背面に左馬頭基氏・芳賀伊賀守高貞貞治四年(1365年)六月十七日、此地に於て戦ひし由を彫る、又この余の数塚は、大抵はたはり十坪(約33.06㎡)ばかりにして、高各六尺(約1.82m)余、皆戦死のものゝ屍を埋みし印なりと云、又【鎌倉物語】に永享十二年(1440年)結城の氏朝長春院殿の子息、春王安王を助けて、三月十五日両大将二手に成鎌倉を打立、性順は苦林に陣を張り、景仲は入間川に陣取て馳付勢を待居たるなどみゆ、おもふに此地当時上野より鎌倉への往還にかゝりたればなるべし、この余にも小迫合などはしばしばありしならん、記録にもらせしならん、