大類村(入間郡・未勘)

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大類村は川越城及び江戸よりの行程前村に同じ、松山領にて入西に属す、按に大類氏は当国七党の一児玉党の人なるに、此辺同じ児玉の党なる越生氏等住せし由を伝へたれば、当村も恐くは大類行綱が一族など土着の地にして、在名をもて氏には名乗らんとなし、かくて村なることは論なし、既に上野国群馬郡宿大類村は昔児玉党大類氏の居住せし地なる由伝へり、又【北条役帳】に紫藤新六入西郡大類十八貫七百六拾三文、卯検地同大類六貫三百四拾五文とあり、卯検地は他村を以例するに、天文十二年(1543年)癸卯に当れり、村の広狭、東西へ六町(約654.55m)、南北九町(約981.82m)にて、東は玉林寺・善応寺の二村に接し、南は大久保村に境ひ、西は川角村にて、北は越辺川に限れり、川の向は西戸村なり、水田少く陸田多し、当村御入国の頃のことは総て伝へず、正保年中(1644年〜1648年)は安藤九右衛門・水野伝蔵二人の知行なり、其後何の頃よりか水野が采地は、収公せられて御料となりしを、又近き年肥田豊後守に賜ひて、今安藤松五郎と二人知行す、検地は宝永四年(1707年)安藤信濃守糺せる由なれど、是は全く私に己が知行を検せしなるべし、家数は都て六十軒なり、

高札場二ヶ所

一は村の中央にあり、一は南にあり、

小名

鎌倉道

西方川角村の境を云、こゝに鎌倉への古道あり、北の方苦林村より村内九町(約981.82m)を過て、南方大久保・市場二村の間に通ぜり、今は尤小径となれり、是は鎌倉治世の頃、上下野州より鎌倉への往来なり、今も此細径を北へ往ば、越辺川を経て児玉郡本庄宿へ通ぜり、南の方は市場・大久保の境を過、高麗川を渡りて森戸・四日市場村の間をつらぬけり、

十社明神社

村の鎮守なり、祭神詳ならず、村内大薬寺持、

諏訪社

村民持、

大薬寺

新義真言宗、今市村法恩寺の末、瑠璃光山薬王院と称す、本尊は立像の薬師、

浄国寺

浄土宗、河越蓮馨寺の末、開山円随示寂の年を伝へず、本尊弥陀を安置す、

疱瘡神社

薬師十二神の一、卯の神を神体とす、