堀籠村(入間郡・入西領)

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堀籠ホリコメ村は浅羽庄に属すと云、家数二十余、東は新堀村に隣り、南は大塚・峰の二村に界ひ、西は小山村にて、北は竹之内・北浅羽の二村なり、東西三町(約381.82m)半、南北六町(約709.09m)半に余れり、陸田多くして水田少し、用水は越辺川の水流を長岡・北浅羽二村の間より分水して水田にそゝげども、やゝもすれば旱損ありと云、【北条役帳】に太田十郎兵衛が知行廿七貫七百七十九文と載たれば、永禄(1558年〜1570年)の頃は太田が知所なり、御入国の後は多田所左衛門に賜り、今に至りて其子孫多田善八郎知行す、検地は承応三年(1654年)多田が先祖善八郎某糺せりと云、村内に越生より坂戸村への道ありと、小径なり、

高札場

村の中程にあり、

小名

桑原

四方塚

東円坊

堀ノ内

村の西にあり、三千坪(約9,917.36㎡)程の地なり、昔の地頭多田所左衛門が陣屋の跡なり、其後江戸へ移りし年代は詳ならず、

三島社

村の産神なり、大法寺持、下三社並に同じ、

山王社

稲荷社

榛名社

大法寺

金生山と号す、新義真言宗、今市村法恩寺の末なり、開山堯龍慶長十年(1605年)六月寂すと云、本尊不動側に白木にて造れる地蔵の立像を安ず、長二尺三寸(約69.70cm)許、行基菩薩の作りなりと云伝ふ、

阿弥陀堂

弥陀は立像にて腹籠りに画像の弥陀を安ず、恵心の筆なりと云、此木像を堰守の弥陀と号す、其由来を尋るに昔入西領十ヶ村用水不便にて、苗代の頃は年々水の足らざるを患ふること年久し、然るに此像土人の夢に入て用水の地理を告しらせしにより、今の如く長岡・北浅羽の村境より越辺川を引始めしより、用水便利を得たりとぞ、其かみは此堂小山村の内、小名阿弥陀堂と云所に有しを、元応元年(1319年)時宗の聖寒珍と云もの当所へ移せしとぞ、されば土人今も水利を祈りて、用水の組合十村より、年々米一斗づゝを寄進すと云、