戸口村(入間郡・入西領)
戸口村は河越城より乾(北西)に当りて三里(約11.78km)を隔つ、江戸より十二里(約47.13km)の行程なり、昔は片柳郷と唱へしと云、家数五十五、村の四境、東は粟生田村に隣り、高麗川を界とす、南は塚崎村、西は新堀・小山・沢木の三村にて、北は和田・新ヶ谷の両村なり、東西三町(約327.27m)、南北四町(約436.36m)許、水田少くして陸田多し、元より地形低くして川に添たれば水災ありと云、当村天正(1573年〜1592年)の始は北条家の領せし所なり、村民喜右衛門が家に蔵する天正十二年(1584年)北条家より出せし文書に、
正木棟別麦当郷毎年於□□数の内為初納五俵、四月廿八日川越へ相届、大道寺代に可渡之、御陣者に被下間、日限至于相違ハ可為曲事者也、仍如件、
虎印あり 甲申三月廿一日 小代官 戸口小代官百姓中
御入国の後島田庄五郎重利に賜はりしが、其後替りて元禄年中(1688年〜1704年)に至りて、吉良左京大夫と平岡某に賜れり、其後吉良が采邑は召上られて、安永九年(1780年)に横田筑後守に賜はりしが、夫も上りて御料所となり、又寛政十二年(1800年)平岡美濃守へ一円に賜はりしより、今其子石見守知行せり、検地は寛永(1624年〜1644年)・貞享(1684年〜1688年)の再びにて地頭所より糺して、今用る所は貞享(1684年〜1688年)の縄なりと云、
高札場二ヶ所
一は中央にあり、一は長の端にあり、
小名
南河原
白兼
三島
古川
平天神
神島
中丸
五りう
仏堂
天王
栗木河原
在家前
吉原
笠木
高麗川
東南の方を流る、塚崎村より入、新ヶ谷村へ達す、川幅三十間(約54.55m)、或は二十間(約36.36m)許、石川なり、步行渡場一ヶ所あり、冬毎に板橋を渡して往来にたよりをなせり、
葛川
西北の方を流る、是も塚崎村より入、和田村に至る、川幅三間(約5.45m)許、狭き所にては一二間(約1.82m〜3.64m)にすぎず、
土産
戸口臥席
当所にて花臥席を織江戸及川越辺へ出せり、是を戸口臥席と唱ふ、
蛇口神社
相伝ふ昔龍福寺の前の深田に、年久しく蛇住しを、同寺の開山俊海法力を以解説せしめ、神に祝ひて蛇口神と号すと云、神体は十二天の内の水天に似たる像なり、龍福寺の持、
天満宮
此社は昔小名平天神に有しを、寛永年中(1624年〜1644年)今の地へ移せりと云、村の鎮守なり、同寺持、
末社 八幡社
神体は上差の矢の根なり、長七寸(約21.21cm)許、寛永廿一年(1644年)正月廿九日地頭嶋田庄五郎重利が建立せし所なり、
龍福寺
天神山不動院と号す、新義真言宗、石井村大智寺の末、本尊不動を安ず、腹籠の像あり、長一寸八分(約5.45cm)運慶の作なりと云、開山は本山第九世俊海寛永二十三年(※正保三年の誤記:1646年)六月廿六日寂す、
薬師堂
弥陀堂 二宇
村の持、