箕和田村(入間郡・越生領)
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箕和田村は古く開けたる地と見えて、年譜録応永三十一年(1424年)尼禅智が寄附状に、入西郡越生郷之内箕和田とみえ、及び同三十三年(1426年)同人の寄附状に、越生郷則次名箕輪田窪田五段事云々とせたり、この箕輪田と云も当村のことにて、窪田は今村内小名に呼べる久保田のことなるべし、其地は川越城の西四里(約15.71km)許にありて、東の方西戸村に接し、西は如意村にそひ、南は越辺川に限れり、其対岸は馬場・堀籠の二村なり、北は如意・小川の二村に隣れり、東西も南北も凡四町(約436.36m)、家数二十軒余、田多く畑少し、用水は越辺川より引入るれど、水利不便なる地にして、動もすれば旱魃の患ありといふ、慶長二年(1597年)九月検地ありし由、其時の水帳に見えたり、其後寛文八年(1668年)成瀬八左衛門検地せしが、この水帳には高麗領と記したり、当村御入国の後は御料所なりしに、貞享(1684年〜1688年)の頃吉良中務・平岡石見守二人の先祖に分ち賜りしより今も替らず、
高札場
村の西によりてあり、
小名
久保田
村の中ほどにあり、この小名のことは前に弁ず、
八つおさ
山崎
まゝ下
梅ノ木戸
横沢
笹山
山海やしき
越辺川
村の南境を流る、如意村の方より来りて西戸村に達す、川幅五十間(約90.91m)許の石川なり、
不動堂
地蔵堂
共に百姓持、
旧家者藤太郎
関屋氏なり、先祖は関屋藤三郎と称して、比企郡松山の城主上田閣斎に仕へて、何の合戦の時にや戦死せりと云、他の考証となすべきことはあらざれど、上田直朝より与へし文書あり、其文に、
やうめい寺ふん之事、如前々いたしおき候間、為以後之候間一筆遣候、謹言、
三月十二日
朝直(花押)
関屋藤三とのへ
月山