如意村 附新田(入間郡・越生領)

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如意村は高麗領に属す、村の起りは古より如意寺建る地なれば、ただちに其名とせりと云、按にかの寺を開きし僧秀曇は、延文二年(1357年)二月廿二日寂し、隣村法恩寺年譜録康永三年(1344年)の寄附状に、如意小太郎行村と云者あり、又同寺応永九年(1402年)の寄附状に、武蔵国入西郡越生郷如意村内蓮道之屋敷など記せり、然れば如意の地名となりしは、古よりのこととは見ゆ、如意を今子お井(ねおい)と唱へり、如と子おとは五音縦横の相通なれば、誤りしなるべし、其地は川越城の乾(北西)五里(約19.64km)にあり、江戸よりは十六里(約62.84km)の行程なり、東の方小用村に接し、南は箕和田村及び越辺川に限りて、対岸は上野村なり、西も同じ川を境となし、其向は今市・和田の二村に隣り、北は大谷村及び比企郡熊井・大豆戸の二村なり、東西十五町(約1,636.36m)、南北十七町(約1,854.55m)、家数三十八、此辺は総て山丘の地にして、高低最多し、用水は越辺川を引用ゆるといへども、水利悪き地なれば多くは天水を待て耕種するにより、常に旱損ありと云、当村は御入国の頃より御料所にして、正保年中(1644年〜1648年)は御代官高室善三郎支配せしに、何の頃よりか島田藤次郎が家に賜はり、後其半を裂て田代勝三郎に賜へり、然るを藤次郎が知行は、中頃収公ありしに再び彼家に返し賜はりしとて、今も島田・田代二人の知る所なり、検地は寛文八年(1668年)御代官成瀬八左衛門が承りにて糺せりと云、村内より乾(北西)の方に後年開きたる新田あり、如意村新田と唱ふ、民家もなく本村の持添なり、飯塚常之丞が検地せし由言伝へたれど、其年代は詳にせず、今は御代官所なり、

高札場 二ヶ所

何れも村の中程にあり、

小名

赤井川

細流なり、昔行基菩薩閼伽に用ひしゆへ、閼伽井川と書すべきを改めて、赤井川と書して小名となせり、又此辺百姓庄蔵が宅地の内に井あり、円径三尺(約90.91cm)許、深さ五尺(約1.52m)もあるべし、いかなる旱魃にも水涸ることなし、昔行基菩薩如意寺の本尊を彫せし頃、加持の水に用ひし井なりと、これ等皆土人の伝る儘を書せり、

かいそう入

かまり沢

堀ノ内

坤(南西)の方を云、按に堀の内と云地名多くは、舘跡、屋舗跡等の名残なり、現に当郡の内石井村の小名堀ノ内は、勝呂豊前守が住せし所なりと云ひ、毛呂本郷にあるものは、毛呂土佐守顕季が陣屋跡なり、又平山村にも此小名あり、ここも何人が住せし跡なりと云伝ふれば、当所も前に出せる如意小太郎行村が住したる跡ならんか、されど土人は其ことを伝へず、

宮田

申酉(西南西〜西)の方にあり、事は熊野社の条に弁せり、

かすま

塚越

根岸

姥が沢

中島

長沢

新井

ほと沢

七国

ねつ原

殿かいと

さるた川原

越辺川

村の西南を流る、隣村大谷村より流れ来り、箕和田村に達す、川幅は三十間(約54.55m)に余りたれど、常には数条の細流となりて流れり、

熊野社

法恩寺年譜録を按るに、文明十八年(1486年)越生次郎左衛門尉定光と云もの、如意村熊野神領をもて彼寺に寄附せしを、後頼曇和尚神主山吹に返し与へたる由見ゆれば、古社なること知らる、今村内宮田と云小名は、恐らくは当社の神領の地なりしならん、永命寺の持、

熊野白山三島社

三座共に神体はなく、只三尊の弥陀を鋳出せる銅鏡を置り、熊野の本地なるべし、百姓の持なり、

如意寺

蓮花山と号す、新義真言宗、上野村医王寺の末なり、開山秀曇延文二年(1357年)二月廿二日寂す、本尊如意輪観音の坐像長六尺(約1.82m)、行基菩薩の作と云、

常福寺

当寺も医王寺の末山なり、明王山と号す開山承覚、貞治の頃の人なりと云、本尊毘沙門を安置せり、

阿弥陀堂跡

門前にあり、土人ここを御堂前と云、今は陸田となりて其跡に長八尺(約2.42m)幅二尺(約60.61cm)許なり、碑一基あり、文字漫滅して読べからざれど、右旨趣者、為十五日御堂講結衆逆修、延文六年(1361年)二月時正云々、等かすかに見へり、

永命寺

これも同寺の末なり、能寂山と号す、開山慶嶺大永年中(1521年〜1528年)化す、本尊不動を安ぜり、

釈迦堂