和田村(入間郡・越生領)
和田村は江戸より十五里(約58.91km)、川越城よりの方位及び行程は前村に同じ、堀江庄に属す、家数四十余、東は如意村に隣り、南の方今市村及び西の方黒岩村の界には、越辺川延亘せり、北の方は成瀬・大谷の二村に接す、東西八町(約872.73m)、南北十町(約1,090.91m)、土地すべて山に傍し所なれば、高低ありて陸田多く、水田は纔に三分の一に当れり、用水は越辺川の水を引漑げり、検地は寛文八年(1668年)御代官成瀬八左衛門ただせり、正保年中(1644年〜1648年)は高室善三郎が御代官所にて元禄(1688年〜1704年)の頃まで御料所なりしが、金田某に賜はりてより今子孫主殿知行せり、
高札場
村の乾(北西)の方にあり、
小名
河内
西袋
東大崎
むらさき
熊野下
たる沢
うつこし
水穴
山きは
御嶽
大崎
清水
越辺川
成瀬村より流れ来り、如意村に至る、川幅二十間(約36.36m)、平常は僅に二三間(約3.64m〜5.45m)許、冬より春に至ては板橋を架して往来に便す、
春日社
慶安二年(1649年)社領五石の御朱印を賜ふ、天文十二年(1543年)龍穏寺第七世僧良筠が書し縁起を閲るに、当社は昔藤原季綱と云人左遷せられ、此越生郷に幽棲して、一日阿諏訪山に遊猟せしに、其氏の神はるばるへと慕ひ来り、秩父郡高山の峯に光をはなつ、これ則毛呂明神なり、季綱謹で拝し、やがて一体を二所に祝い祀り、当所に祭れるを内裏明神と称せり、今按に此縁起の原本には、毛呂の先祖季綱を季綱親王と記せり又当国へ配流せらると記せしは共に誤なり、季綱は毛呂太郎が名乗にて、【東鑑】にも此人のことをのす、殊に毛呂は藤原姓にて、皇別の家にも非ず、又当国は古より配流の例なし、縁起の妄なること知べし、されど内裏と称することは旧きことにや、堂山村最勝寺の什物大般若経の櫃の裏書に、越生郷内裏宮常住也明応三年(1494年)とあり、然るを慶安年中(1648年〜1652年)御朱印を賜んことを願し時、内裏の唱大内にふるゝ故書替しと云、又云此社は延暦元年(782年)村内願龍山と云所に鎮座せしを、永禄元年(1558年)上田能登守今の地へ移せしと云、此説の如きは前の縁起と異なり例祭九月廿八日・廿九日の両日、流鏑馬を修行す、此流鏑馬式の来由を尋るに、近戸権現別当最勝寺古当社の別当職を兼し頃、当社の宝物大般若経を所望し、神職及氏子に請て最勝寺に送りし時、彼近戸権現の旧例に行はるゝ流鏑馬式と易しより、以来当社にて行ふと云ふ、されど今も社内に大般若経二三巻あるは、そのかみ最勝寺へ移せし時、たまたま取遺せしならん、此社今は今市・大谷・黒岩及び当村の鎮守となせり、
摂社
太神宮
八幡社
末社
八百万神社
稲荷社
天神社
神職 石井肥前
京都吉田家の配下なり、
熊野社
興禅寺
慶安二年(1649年)釈迦堂領として、五石の御朱印を賜はれり、新義の真言宗、上野村医王寺の末なり、石植山常住院と号せり、開山の僧を栄龍と云、応永三十年(1423年)の示寂なり、本尊不動を安ず、
釈迦堂
堂領の御朱印を賜るときは、此釈迦元の本尊なりしにや、とにかく由緒ある像なるべし、堂の傍に正安二年(1300年)の碑ててり、
龍台寺
これも新義真言宗、今市村法恩寺末、御嶺山不動院と号す、本尊大日、開山栄仁応永六年(1399年)寂すと云、境内にその墓石をたてたるあり、
不動堂
御嶽社
阿弥陀堂
藤原季綱旧跡
字内裡にあり、此地昔藤原季綱が配せられて謫居せし所なりと云、季綱後に横見郡吉見領御所村へ移りしと云伝ふ、然に土人は季綱親王と号するは全く誤なるべし、配所と云も又うけがたき事前に弁ぜし如し、おもふに越生氏の祖、大納言藤原遠峯などの邸蹟などにや、