龍ヶ谷村(入間郡・越生領)
龍ヶ谷村は河越城の乾(北西)に当りて六里(約23.56km)を隔つ、村内龍穏寺の縁起には、高麗郡の内に属すとあれど、古へは郡界のことも麁略にて、郡をたがへ書せしことまま有しなれば、ここも其類にて、あながち古くは、高麗郡に隷すと云にはあらざるべし、村名の起りを尋ぬるに、当所の内に古へ深淵ありて、其所に年久しく龍ひそみけるを、龍穏寺第五世の僧雲岳が祈誓によりて、かの龍升天し、其迹変遷して尋常の平地となりしかば、農民等そこを新開せし地なるにより、此名起れりといへど、是も浮たる説にて其正しきことをしらず、正保(1644年〜1648年)の比の物には已に当村の名なし、今市村の内龍穏寺領とのみあり、されど今その地形を見るに、今市村を距ること凡二里(約7.85km)に余れり、然るをかく記せしことこれもまた疑べし、思ふに古へは此辺都て越生郷の内にて、今市村はそれが中の本郷なれば、かくは云しにや、その後元禄十五年(1702年)の国図に至りて、始て龍ヶ谷村の名をのせたれば、一村にたちしはこの間の事なるべし、されど龍ヶ谷の名は古きことと見ゆれば此比までは越生郷の内に属せし小名などにてありしにや、民家四十余、東は大満村にとなり、南は黒山村にさかひ、西は秩父郡の内にて、吾野の内高山村に接し、北は郡中小杉村及び比企郡麦原・椚の二村に交はれり、東西山林をかけて一里(約3.93km)ばかり、南北三十町(約3,272.73m)ほど、秩父・入間の郡界は村内の峰通りをかぎりて、村にかかること二十町(約2,181.82m)許、比企郡とさかふ所は五六町(約545.45m〜654.55m)ほどあり、村内すべて山々かさなり、人家は山間に散住せり、陸田多く水田少し、天水をたたへて用水とし、水便あしければしばしば旱損す、村内に秩父郡高山村へ通ふ道あり、これを四寸道とよぶ、その幅狭くして馬の通はざるほどなる故、此名あるべし、検地は天正十八年(1590年)なりと云、是は越生郷の内に属せし比のことなり、夫より今に至るまで龍穏寺の所領なりと云、
高札場二ヶ所
東と北とにあり、
小名
堂沢
古へ龍穏寺のありし所なり、今は同寺の門外の辺を云、
千駄萱
近辺にて高き山なり、ここより萱千駄づつ、年々刈取ゆへにかくよぶ、
梅本
藤谷
野すはり
八枚畠
猫谷
児墓
秩父郡高山村の境にあり、ここも山上にて絶頂に児塚と云あり、その来由を知らず、
戸神谷
そふり山
羅漢山
龍穏寺門前の山を云、相伝ふ昔此地に僧五人すめり、いかなる魔心を生ぜしにや、此山に登り行を修して、終に天狗となり、折にふれて土人を悩しける、其比の住僧これを祈り、五人の羅漢と崇けるにより解脱を得たりと云、故に羅漢山とよぶとぞ、今は老杉数十株並び立て陰森たり、かの天狗の棲し比のならはしを守て、今に至るまで杉樹の枝を伐りとることを禁ず、たまたま暴風などに折くちたる折口をみるに、木理の美なること他木にことなりと云、この五羅漢のこと奇異の説にて、うけがひ難きは論なきことなれど、相州関本最乗寺の僧道了が話に似たり、この類のこと他にもあることなり、
川
龍穏寺の右の方にあたり、五六町(約545.45m〜654.55m)をへだてて谷間より落る瀧あり、これを不動瀧とよぶ、さまで大なる瀧にはあらざれど、間断なく水飛流するゆへ、流末に至りては広き川となれり、又彼瀧壺の下流に龍窟と云所あり、ここよりも水湧出す、其余谷々の清水湊合するもの少からず、其川中に岩石多くあり、常に出没し激流するゆへ、水勢もいとはげし、この流水大満村に至り黒山川と合し、後越辺川と唱へり、当村を流るる間を指して、他村にては龍ヶ谷川、或は龍穏寺川などと呼べど、一間(約1.82m)許の小川なれば、村内にては反て無名の川なり、
龍穏寺

曹洞派の大僧録にして、関東三ヶ寺の其一なり、長昌山と号す、此寺古は今の門外小名堂沢と云所にありて、其頃は山号も瑞雲山と云り、今の寺地古くは深き淵にて、蛟龍のすみかとなり、人の通ひもなかりしに、第五世の僧雲崗和尚山神に祈誓しければ、俄に風あらく雷なり、かの龍騰天し深淵忽ち平地の如くなりし故、やがて其所へ引移せしと云、肯かひがたき説なれど、村を龍ヶ谷といへるも是より起りしといへば、其あらましを記しをさぬ、当寺の開闢を尋るに、永享(1429年〜1441年)の頃にや、足利将軍義教祖先韋氏以来代々の追福を修し、且多年当国の戦争に、身を果せしあまたの人の冤魂をなだめん為、一の大伽藍を建立せんと思ひ給ふ、折から無極恵徹といへる高徳の僧あり、其先は当国児玉の党にて、父は将軍義詮に仕へしものなり、世の争乱を避て肥州に至て、応永年中(1394年〜1428年)又当国多磨郡小山田に来り、卓庵和尚を師として、大泉寺を開き暫く住せしが、後又父母の遺跡を慕ひ、且は当郷の内瀧の入村桂木山に、兼て信ずる観音の霊場あるにより、ここに来て暫く錫を停めけり、義教元より此僧に帰依せしかば、迎取て開山たらしめん合とす、然るに当国は扇ヶ谷上杉修理大夫持朝が分国たるにより、かの人に命じて七堂伽藍を荘厳せしめ、若干の寺領を寄附し、懇に請じ入れて開山とす、其後無極檀越の進めにより、月江正文和尚に当寺を譲りて、濃州補陀寺に趣き、永享二年(1430年)十二月二十八日寂を示す、月江左薦の間は世の争乱止時なく、此辺しばしば戦争の衢となりしゆへ、遂に兵火にかかり、堂宇すべて一畢の煙燼となりけるに、かかる争戦の間なれば資費をそふる者もなく、月江一己の力にては、再建に及びがたきゆへ、空く当寺を出て暫く小杉村に退棲す、今の円通寺是なり、其後月江亦師の迹をしたひ、濃州にいたり、補陀寺に住職せしかば、当所は再建の沙汰に及ばず、たれも法幢を立べき者もなきゆへ、廃寺の如くにて年をへたり、ここに又泰叟といひし僧あり、二師の迹を恢復せんとす、時に太田道真道灌父子も、亦先祖の冥福を修せんことを思ひ、且はこの年ごろ屍を戦場に曝せし人々の亡霊を弔んが為、去るべき寺院を経営せんと思ひしに、たまたま普光院義教三十三年の祭期も、近く明年に当れるをもて、前に無極が当寺を草創せし先蹤に習ひ、諸堂を再建し、泰叟を請ふて董席せしめ、曹洞一派の事を総司らしむ、是文明四年(1472年)のことなり、依て此僧を中興開山と称し、道真をもて中興開基とし、堂中に太田家代々の霊牌を置り、道真明応二年(1493年)二月朔日卒す、一に七月二十五日とあり、謚して自得院実慶道真庵主と号す、泰叟後足立郡大成村普門院に移職し、明応六年(1497年)十一月四日示寂す、第五世雲崗和尚のとき、法力を以て龍怪をなだめ、永正元年(1504年)当寺を今の地に移し、山号をも長昌と改むと云事は前に弁ぜり、又第七世箇庵和尚が天文十二年(1543年)に記す所の寺伝あり、首尾捴て漢文にて、或は仏語を交へ事長ければ、全文をばとらず、其要を撮み及び今住僧の伝ふる所を述ること此の如し、寺の起立のことに至りては、疑ふべきことあり、小山田の大泉寺と当寺のことと相混じて、書せしさまにてわかちがたく、其上泰叟より以前は、しばらく他派の僧住せしなど云こと見ゆれば、無極の開闢と云は、大泉寺のことにて当寺は泰叟始めて開き、無極を勧請して開山とせしも知るべからず、されど旧刹なることは疑ふべからず、相国寺の僧万里が【梅花無尽蔵】に、文明十八年(1486年)季是十日、越生の道真が自得軒に就て、郭公稀なりといふ題にて七絶一首を吟ず、縦有千声尚舎稀、況今一度隔枝飛、誰知残夏似初夏、細雨山中聴未帰、又長享二年(1488年)八月十六日、龍穏精舎に入て一絶を賦す、越生古寺卸鞍時、斜照吹鴉欲宿枝、忽入上古参薬石、愧非忘案老禅師、是等にても当寺の旧迹たること知るべし、又第十四世良加和尚の時、天正十八年(1590年)太閤秀吉より小田原征伐のとき、朱印を押せし制札を与ふ、其文を写て門外にたつ、又同き年(1590年)百石の朱印を与ふ、その文今は失へりと云、東照宮駿府にあらせられし頃、第十七世洞谷和尚のとき、慶長十七年(1612年)先規に任せて、寺領百石の御朱印を賜ひ、僧録司三ヶ寺のことも是までのごとく仰ゆるしあり、又全阿弥を以て宗法の掟を仰せ下されし文書もあり、其文下にのす、三ヶ寺と云は当寺及下総国国府台総寧寺・下野国富田大中寺是なり、此三寺にて国中を三分し其一をつかさどる、当寺のあづかる所は二十三ヶ国、所謂武蔵・上野・紀伊・備後・美作・伊予・土佐・阿波・讃岐・安芸・周防・長門・信濃・越後・佐渡・豊前・豊後・筑前・筑後・肥前・肥後・淡路・備中等なり、御打入の前よりも此三寺は僧録司なれど、総寧寺は始め乗安寺といひ、大中寺はもと乗国寺と云、寺号の昔よりかはらざるは、ただ当寺のみなり、又秩父郡高山の不動は、当寺の奥院と称す、今も住僧入院の後必高山へ参詣す、又云古へは住僧常に当所に居りて、江戸の公務は芝青松寺へ役僧を出しおきて勤めしめしが、次第に公用多端なれば、二十六世普春和尚のとき、延宝六年(1678年)江戸麻布本村にて六百坪の寺地を買ひ、宿寺を建立してここに常在す、後此所賜地となれり、しかりしより後は、住職の後一日の御暇賜はりて当所に入り、夫よりは始終江戸の宿寺の方に居り、当所には鑑司をおきて諸事を調理せしむ、是は正徳年中(1711年〜1716年)より定められしことにて、かの普春は元禄二年(1689年)十月二十日の示寂と云、かかる大寺なれば地域もことに広し、ここに又山口周防守重政なるもの当寺に居りしと云、其家の譜に重政慶長六年(1601年)武蔵国の由木に於て、五千石の地を加へ給ひ、同十一年(1606年)台徳院殿の釣命を請て大番の頭となり、同十六年(1611年)下野国の内にて、又五千石の加恩を賜ひ、都て一万五千石を領せしが、同十八年(1613年)故有て罪を得、当郡越生の庄龍穏寺に隠居り、同十九年(1614年)大坂御陣の時、重政其子伊豆守重信を携へ、ひそかに其役にをもむかんとして、箱根の関に至るとき、関守是を通さず、依て又龍穏寺にかへり、重信を商人の体に粧ひ立て出せしが、已に御和睦調しかば重信又当所にかへりしとあり、されば山口父子当寺に寓居せしこと疑ひなけれど、住僧に問ふにつまびらかならず、
惣門
冠木門なり、門に向て左の方に制札を立、其文左に、
禁制 武蔵国越生龍穏寺幷郷中
一 軍勢甲乙人等濫妨狼藉之事、 一 放火之事、
一 对寺家門前之輩非分之義申懸事、 右条々堅令停止訖、若於違犯之輩者、忽可被処厳科者也、
天正十八年(1590年) 御朱印
ここに御朱印と記すものは、前にもいふごとく太閤秀吉の朱章なり、惣門を入れば左右に並木あり、並木の外は小山連り龍ヶ谷の川ながれり、
蒲団石
惣門の内にあり、一間(約1.82m)四方許りにて、上面平かなる石なり、一名を叢麩石と云、昔より住僧定り初て入院の時、石上に毛氈をしき、かの住僧惣門の方よりここを過るとき、この石上にしばし憩息するを常例とす、此とき点心として、叢麩を食する故かく名くと云、
板橋
龍ヶ谷川に架す、此橋をわたり、川にそふてゆく、傍に大石あり、高さ六尺(約1.82m)余、自然石とみゆ、これを帳付石と呼、又しばらく行て同じ形の石あり物見石と云、節庵が記す所の天文十二年(1543年)の寺伝にもみえざれば、古くよりありしなるべけれど、其由来は詳ならず、
表門
近年大風にやぶれて、未だ再建せず、仮の門を立、
楼門
冠木門
本堂
本尊釈迦脇士伽葉阿難の像を安ず、この堂の左右に廻廊を設け、冠木門の左右に続けり、中庭に小池あり、池中に弁天の小社あり、
庫裏
鐘楼
寛文十二年(1672年)当寺第二十五世太了和尚のとき鋳造せしものなり、銘文あれど考証に益なければとず、
僧堂
衆寮
熊野社
第三世泰叟の勧請する所、境内の鎮守なり、
閻魔堂
浴室
寮
秩父寮・首座寮・坂戸寮・三陽軒など云学寮あり、
五輪石塔
二三基立り其内太田道灌の墓ありと伝ふれど、文字も消たれば、いづれが是なるを知らず、
月光水
墓所の中なる古木の杉の根より出る霊水なり、当寺月光和尚といふ者、加持の水に用ひしと云、村民はかまの水と云て、旱魃の年は近隣の者来り請てくみとるといへり、
龍窟
境内北の方なる山の谷あひにあり、飛泉の末流この所を流る、かの古へ龍の住しと云は、此所なりとぞ、今尚窟の広さ畳五六畳を敷程なり、
寺中三枝庵
門前の小高き所にあり、此所古へ道真入道が居住せし所ならんといへり、太田系図に、於武州越生、建精舎号龍穏寺、道真常住越生、明応二年(1493年)癸丑二月二日卒、八十三歳、号雪山居士とあり、道真が自得軒のありしは、此所なるべしといへり、
文書五通
左にあり、
当表在陣為届使僧殊梠原并扇子送賜ひ祝着候、委細全阿弥可申候、謹言、
三月廿八日 大納言印
龍園寺
当寺門前幷寺領之百姓等、如前々寺家可被馳走候、雖々郡司に被仰付候共、無異議之様涯分可申理候、聊不可有疎意候、恐々謹言、
天正十八(1590年)六月朔日 羽柴筑前守 利家(印)
武州龍穏寺
御法度之事
一 引導之場へ祈祷之出家不可入手候、御国法に無御座候間堅申断候、遠乱申真言天台山伏於有之者雑物指添奉行所へ以使僧可被仰上候、 午霜月廿二日 全阿弥 判 進上 龍穏寺侍者中
伏啓上去年に於江城玉龍坊山本坊へ申断候、祭導之義有間敷候事、其地真言天台又者山伏衆へ急度被仰越、可及御断為其一筆進之候、恐惶敬白、
申二月五日 全阿弥 判 進上 龍穏寺侍者中
御国々へ法度堅申断候、遠乱申出家山伏有之者、雑物指添奉行所へ以使可被越急度申付、御分国可追放者也、這而諸宗引導之場へ、祈祷之出家不可入手、況前々檀那八宗共に奪取事、
慶長七(1602年)壬寅年霜月廿二日 泰之 全阿弥 判
進上 龍穏寺衣鉢閣下