鹿下村(入間郡・越生領)
鹿下村は比企郡に接したる地にして、川越城の乾(北西)五里(約19.64km)にあり、江戸よりは十五里(約58.91km)、下二村も江戸への行程はこれに同じ、堀江庄高麗領に属す、当所も古く開けたる村と見えて、今市村法恩寺の年譜録、応永三十二年(1425年)八月廿三日尼禅智が寄附状に、奉寄附報恩寺、武蔵国入西郡越生郷、恒弘名鹿下高房東長五郎入道、在家附田参段、当作人左藤太郎入道、毎年之徳分壱貫九百文所事右田者自越生主計入道宏忠〔号小野田〕、手所令永代買得地也云々と記し、又堂山村最勝寺に蔵せる、大般若経延徳三年(1491年)之奥書にも、鹿下の名見えたり、四隣の接界は東の方大谷村に添ひ、南は成瀬村、西は比企郡古池村にて、北も同郡馬場・高野倉の両村なり、東西の径り八町(約872.73m)、南北十町(約1,090.91m)許、もとより山丘の地なれば、高低均しからず、陸田多く水田は少し、民家四十八、村内上野国より相模国への往来一条あり、成瀬村より比企郡古池村へ達す、此村は御打入の頃より御料の地なりしに、中頃服部庄五郎が知行に賜はり、後御料に復せしを、又改て大島大和守・逸見栄助等が先祖に賜ひしより今も替らず、検地は寛文八年(1668年)成瀬八左衛門奉りて糺せりと云、
高札場二ヶ所
一は村の西、一は東にあり、
小名
高房
村名の条に載たる、応永三十二年(1425年)尼禅智が寄附状にも、此名見えたれば、旧くより唱へし名なることしるべし、殊に其地広くして隣村成瀬にも続けり、
助のぶ
大また
根岸
登戸
はし戸
しゝが谷
大峯
海士谷
仏堂
しほ岡
宿
ふく入
かんな下
沼
村の北にあり、広さ二町(約218.18m)に一町(約109.09m)許、土人学頭沼と呼べど、名義はしられず、
円泉寺
新義真言宗、上野村医王寺末、西刹山と号す、本尊薬師を安、
東用寺
同宗、今市村法恩寺末、瑠璃山と号す、開山信心法師天正十六年(1588年)正月六日寂す、本尊弥陀を安置す、
薬師堂
薬師は坐像にして長三尺五寸(約1.06m)許、春日の作、
大行院
本山派の修験、西戸村山本坊の配下なり、寺記を閲するに、岡崎吉実と称せし人の子孫、正元元年(1259年)武州入間郡越生岡崎に移住して修験者となり、源栄と改号す、是大行院の開祖なりと云、今按に近郷今市村の小名に、岡崎と云ものあれば恐くは彼を指て云しならん、