塚越村(入間郡・河越領)

公開日:
目次

塚越村は河越城より戌(西北西)の方二里(約7.85km)を隔つ、江戸より行程十二里(約47.12km)、三芳野里勝呂郷と呼ぶ、村名の起りは村内西の方に古塚あり、昔八幡太郎義家奥州征伐の時此地を過りしに、折節越辺・荒川の二水溢れて渉ることを得ず、しばらく爰に宿陣ありし時、此塚上に腰を掛玉ひしより起れり、故に古へは文字を塚腰と書しが、何の頃よりか今のごとく書改めしと土人は云へど、もとより信ずべきにあらず、但此塚のもとを塚腰と云しより起りし村名たるべし、村の広狭東西十七町半(約1.91km)、南北八町(約872.7m)許、東は小沼・青木の二村に隣り、南は高麗郡富屋・大塚新田の両村に接す、西は石井村にて、北は赤尾・石井の二村に交れり、水田少く陸田多し、天水を得て耕し旱魃の患あり、民戸九十五、村内西の方に一条の路あり、南の方富屋村より入、北の方石井村に達す、是江戸より秩父辺及び西上州へ行く道にて、石井村と当村にて往来の伝馬の役を勤めり、此村往昔の地頭は伝へざれど、按に【北条役帳】に伊丹右衛門大夫十九貫百三十二文、入西勝之内大宮分藤井共卯(弘治元年/1555年)検地とあり、今村の小名に藤井と云あり、且村内住吉社は此辺の大社にして、社伝に古へは勝呂大宮とも唱へし由なれば、彼【役帳】に載る大宮分藤井は此所のことにて、北条分国の時は伊丹が領地なること知べし、 其後慶長(1596年〜1615年)の頃は村越与惣右衛門が采地なりしが、元和年中(1615年〜1624年)上りて近藤勘右衛門に賜はり、是も替りて元禄年中(1688年〜1704年)松平美濃守が領分となり、又幾程なく宝永二年(1705年)松平千之丞・本多甲次郎・小幡某・榊原弥平次の四人に賜はり、其後弥平次の采地は秋元但馬守に賜ひ、又是も明和四年(1767年)松平大和守直恒に賜りて、今に大和守・本多甲次郎・小幡又兵衛・松平新八郎が四人の采邑なり、検地は慶長十二年(1607年)・元和三年(1617年)・寛永四年(1627年)時の地頭改めたり、又寛文八年(1668年)近藤勘右衛門糺して、今に此水帳をもて租税を出せりと云、

高札場 四ヶ所

一は村の北にあり、松平新八郎が知行の内なり、一は艮(北東)の方にて松平大和守の領分にあり、一は乾(北西)の方本多甲次郎が知行の分、一は南の方にて小幡又兵衛の知行の内にあり、

小名

馬場

此所は元勝豊前守と云し人の馬場ありし所なりと云、豊前守は隣村石井村に住せし由、今も其村に居跡あり、

藤井

古き地名なること、已に惣説に弁ぜり、

塚越

やぐら

土花

かねい塚

かれ山

堀の内

高縄前

石神

まんさう坊

別所

渡戸

中みとう

蔵ヶ谷戸

みやうせんの内

田島

飯盛川

村の北の方より流れ来り、小沼村へ入り越辺川に合す、幅二間(約3.64m)に足らざる小川なり、

村の西にあり、其所を塚越と云、此塚は前に弁ぜし如く村名の起る処にて、義家の腰をかけしと云は即ち是なり、大さ四五間(約7.27m〜9.09m)四方、高さ六尺(約1.82m)ばかり、

鬼橋

飯盛川に架す石橋なり、長六尺(約1.82m)、幅五尺(約1.52m)許の一板石なり、橋杭は平石一枚を川形に立たり、其根入深くして知るべからずと云、此橋に付て土人の話あり、石井村の条に出せり、此外石橋一ヶ所あり、若宮橋と云、

住吉社

村の鎮守なり、慶安二年(1649年)社領八石の御朱印を賜ふ、祭神は表筒男中筒男底筒男三神にて、村上天皇の御宇天徳三年己未(959年)二月二十三日、長門国山田邑より爰に遷し祟り、其後永享元年己酉(1429年)九月十五日、関東管領左兵衛督持氏再興ありし時、底通日女明日登日止の神を配祀す、此和歌三神は普通に祀ると異なりといへども、当社神秘にて斯の如しと云、村内に永享元年(1429年)の棟札及び慶長十五年(1610年)、地頭村越与惣左衛門と記せし棟札あり、永享の棟札は左之如し、

表 村上天皇天徳三年(959年)二月廿二日 鎮坐永享元年(1429年) 宝祚長久天下泰平 国家安全五穀豊饒 祈所武蔵国入西郡 勝郷 山田長慶恭 人王百三代今上皇帝万々歳 勅願所奉遷宮住吉太神 関東大夫源持氏公建立 己酉九月十五日亥上刻 三坐四代孫 大宮司前因幡守勝重直朝臣 裏 大願成就 普請奉行 岡部三郎左衛門 大工頭 村田伊兵衛 三四郎 平三 産子二十七人

とありて、文字を彫刻す、板は古く見ゆれど永享年中(1429年〜1441年)の物とは見えず、尤文字を彫たる様は新しけれど、是は其剥落せしことを恐て、後世彫刻せし物なるべし、此社は古へ勝呂郷の惣鎮守にて、勝呂大宮と唱へしと云伝ふ、前にも出せし如く【北条役帳】に入西郡勝之内大宮分と有は、当社の事なるべし、

本社

中央に住吉明神、右に和歌三神、左に東照宮鎮座あり、

幣殿

拝殿

神楽殿

末社

荒掃除神

荒神社

山王権現社

若宮明神社

木造神社

杉本神社

八重垣神社

子安神社

稲荷社

天満宮

疱瘡神社

国分サハラ明神社

此祭神は明徳三年(1392年)安房国舘山の住人、佐原太郎・同次郎と云二人の兄弟、相従ふ者五人共に此地に来りて死せしを、後かく祀りたるとなり、

社宝

千葉介常胤筆色紙一枚
此色紙実に治承(1177年〜1181年)の物とは思はれざれど、古色に見ゆれば左にのす、

治承四年(1180年)の菊月末の□、武蔵国勝呂の郷といへる処の住吉社に、神拝しけるとてよみて奉り侍る、
千葉介平□胤
あとたれていく世やふりぬすみよしの、宮ゐはさらに神さひにけり、

陣鉦一

形ち普通の銅盥の如くにて蕨手なき許なり、至て薄し円径一尺二寸(約36.36cm)、是は永享年間(1429年〜1441年)、持氏再建のとき納めしといひ伝へたれど、古色にも見えず覚束なし、

神職勝雅楽

吉田家の配下にて、貞和年中(1345年〜1350年)より神職を勤めりと、口碑に伝ふるのみ、但慶長年中(1596年〜1615年)の旧記を蔵せり、其記に式部少輔重胤・主□□胤次・主水正盛晶・因幡守重直・因幡守盛直・主水正盛陽・筑後守正盛・土佐守斉盛・筑後守正直・筑後守正吉・筑後守吉直・伊勢守吉次とあり、是其家歴代の姓名にして慶長十八年(1613年)記す所なり、されど唯其姓名を記せしのみにて卒年等を載せず、其内因幡守重直は当社に蔵する永享(1429年〜1441年)の棟札に記せし人なり、されば旧き神主なること論なし、想ふに当国七党の内、野与党に須黒を称する者あり、是雅楽が祖先なるも知るべからず、家に公より賜はりし物とて所蔵の品あり、左のごとし、

御荼碗一

棗の荼入一

共に葵御紋あり、此二品は大猷院殿(徳川家光)初て日光御社参の時、御祈祷を勤行せし故賜りしと云、

銚子

是も葵の御紋あり、厳有院殿(徳川家綱)の御代、多磨郡府中六所神社修補の時、遷宮のことに預りしに因て賜りしと云、

八幡社

神主勝雅楽が持、

西光寺

禅宗曹洞派、龍ヶ谷龍穏寺末、宝福山と号す、開山は本寺廿世撫州春道正保三年(1646年)七月廿五日示寂す、開基は小嶋豊後とて、管領上杉氏の士なりしが、居屋敷の内へ初て庵室を建て西光庵と号す、其子越後は天文年中(1532年〜1555年)河越夜軍の後上杉を去て北条氏に属し、旧によりて土着せしが、後宅をすて庵を再興して西光寺と号す、天正二年(1574年)十月十三日卒す、法謚して宝福院天空玄理上座と号す、其後初て春道住職して、全の一寺となせしにより、此僧を以て開山とすと云へり、今村民兵右衛門は越後が子孫なりと云伝ふ、本尊は弥陀の立像長三尺(約90.9cm)許り、定朝の作なり、

鐘楼

鐘は安永六年(1777年)に鋳造せり、

薬師堂

薬師は定朝の作、坐像にて一尺二寸(約36.36cm)、

白山社

秋葉社

光明寺

禅宗、村内西光寺末、塚越山と号す、寛文年中(1661年〜1673年)起立の寺なりと云へど、開山の名を伝へず、本尊十一面観音を安ず、