上南畑村(入間郡・河越領)
目次
上南畑村は郡の巽(南東)にあり、上下二村に分れし年歴は伝へざれど、正保(1644年〜1648年)の改めに既に上下と載たれば夫より前に分れしこと知べし、郷庄は総て詳ならざれど、下南畑村の伝に、元は三芳野郷河越領に属せしと云へば、爰も爾唱へしなるべし、村名は元難畑或は難波田と書せしが、当村は荒川と新河岸川の下流に添し地にて、屡水災に罹りしを、土人憂ひて村名の文字悪き故ならんと改めたき由、安永元年(1772年)御代官久保田十左衛門が支配たりし時、公に訴しかば松平右近将監より下知ありて、今の如くに書改めしと云、此村はいと旧き村にて、下南畑村の伝に拠に、天文(1532年〜1555年)の頃難波田弾正憲重其村に在城して此辺を領せしと云、按に弾正が先祖は当国七党の内村山党にて、金子六郎家範が子難波田小太郎高範なり、是保元(1156年〜1159年)・平治(1159年〜1160年)の頃の人にて、既に難波田をもて称号となせば、高範が時より当所に住せしも知べからず、其後のことは伝へず、世下りて応永年中(1394年〜1428年頃)の文書に、
寄進 鶴岡八幡宮寺
武蔵国入東郡内難波田小三郎入道跡事、
右同国六郷保内原郷替所寄附之状如件、
応永七年(1400年)十二月廿日
左馬頭源朝臣満兼判
武蔵国入東郡内難波田小三郎入道跡事、早莅彼所任御寄進状之旨、可被沙汰付下地於鶴岡八幡宮雑掌之状、依仰執達如件、
応永七年十二月廿日
上杉右衛門佐氏憲法名禅秀沙弥判
兵庫助入道殿
武蔵国入東郡内、難波田小三郎入道跡事、任去年御施行之旨、莅彼所、沙汰付下地於鶴岡八幡宮雑掌候畢、仍渡状如件、
応永八年(1401年)二月廿九日
上杉中務少輔朝宗法名禅助沙弥判
按に此文書数通共に、難波田小三郎入道跡とのみありて、幾何地と云ことは知ざれど、難波田一円を寄附せしには非るべければ、旧き地名なることは勿論、且旧きより難波田氏の領せしこと知らる、村の四境東は荒川を隔足立郡本村に隣り、西は当郡鶴馬村にて、南は下南畑村と南畑新田に続き、北は大久保村に錯れり、東西十五町(約1.64km)、南北八町(約872.7m)許り、江戸へ行程七里(約27.49km)なり、水陸の田相半し、用水は伊佐沼の水を引て灌けど、水路不便なれば多くは天水を湛へて耕せり、水旱共に患あり、民戸百五十余、此村は往昔より難波田氏の領地にて、天文(1532年〜1555年)の頃は弾正憲重の采地とし、後北条家の分国となりては上田氏領せしたるべし、【北条役帳】に上田左近百五十貫文入東難波田乙柳検地とあり、此乙柳は弘治元年(1555年)にてあるべし、御入国の後川越城附の地にて、正保(1644年〜1648年)の頃は松平伊豆守の領分なり、其後松平美濃守領主の時上りて御料所となりしより今に替らず、検地は天正年中(1573年〜1592年頃)改定有しといへど定かならず、後寛永八年(1631年)・慶安元年(1648年)の両度時の領主検地せり、此外 に藤窪・鶴馬二村の辺に村の飛地あり、爰は武蔵野新田にして延宝三年(1675年)検地なり、これより前延享元年(1744年)堀江荒四郎検地せし所もあり、又享保十八年(1733年)筧播磨守奉行して、新田の検地ありしと云、
高札場
村の北にあり、
小名
番匠免
あいよし
かめ田
せら崎
なかむ田
しやうしき
砂原
山ノ神
市金
ばんば
壹貫田
おちみ
くたんしよ
猿塚
かま口
池のはし
第六天
川袋
おなか
志戸
荒川
東の方の郡界を流る、大久保村より村内に入、下南畑村に注ぐ、川幅六七十間(約109m〜127m)、此川に添て水除堤あり、
新河岸川
是も大久保村より流来り、下南畑村に達す、川幅十三間(約23.64m)、或は二十間(約36.36m)許に至れり、爰にも水除の堤を築けりと云、
南畑橋
新河岸川に架す、長十二間(約21.82m)、当村及下南畑村・南畑新田・大久保村組合の持なり、修理は官より加へらるゝと云、此外土橋十八ヶ所あり、
明石明神社
村の鎮守なり、村内金蔵院持、
稲荷社
水越明神社
是も村の鎮守にして、古へは金蔵院の持なりしが、今は下南畑村西蔵院の持なり、
稲荷社
蛇木明神社
牛頭天王社
以上二社は金蔵院持、
神明社
農民の持、
稲荷社三宇
一は金蔵院の持、二社は農民の持なり、
金蔵院
新義真言宗、京都醍醐報恩院末、密樹山と号す、本尊如意輪観音を安ず、当寺は慶長十五年(1610年)起立せしと云伝へたるのみにて詳なることを知ず、中興開山承秀は、明暦二年(1656年)三月廿四日寂すといふ、
撞鐘
安永六年(1777年)の銘文あり、
東光寺
金蔵院の門徒なり、本尊弥陀を安ず、
常円寺
是も金蔵院の門徒なり、往年丙丁の災(火災)に罹りて、本尊を失へりといへり、
地蔵院
是も同じ門徒にて、本尊は地蔵なり、
薬師堂
金蔵院の持、
閻魔堂
無縁堂と呼ぶ、同寺の持なり、